大工道具に生きる / 香川 量平
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鉄斧(4世紀/桜井市池ノ内古墳群/橿原考古学研究所蔵)いろいろな形の鉞41が見える状態で残されています。 また基礎工事に携っていた昔の人々でも、建築の敷地内の焼物(瓦や瀬戸物)はすべて撤去していました。その理由は古い昔、第11代垂仁天皇の御代、大変に長寿であった野のみのすくね見宿禰の勅願によって、皇后日ひばすひめ葉酢嬢の崩御のときより殉死(生き埋め)の習慣を改め、陵墓の周囲に焼物の埴輪を埋めることに改め、実行したという伝説によるもので、今も建築の敷地内に焼き物を埋めるのは墓地に通じ、凶であると人々は信じているのです。 今も日本人は建築に関して、いろいろと「吉」とか「凶」という考えを持っている人が多くいます。二間に四間の家は「死に間」とか、平屋の家に二階を増築するのを「御神楽」とか「子なしの大黒」「巽の玄関」「巽の大黒、乾の弁財」「鬼門」「神前、寺横」「岬、谷口、宮ノ前」「長男は東に」「産うぶすな土の神」「敷地内の焼物」「乾の厠に巽の井戸」「逆さ柱」など数多く忌言葉があります。「逆さ柱」というのは、末と元が反対になっている柱のことで、大工が間違って、逆さ柱などに建てると「苦しい」と真夜中に唸り声がしたり、「葉っぱ妖怪」が出て、その家に住む人の夢の中に現れて、毎晩のように脅されるという言い伝えがあります。昔、無知な大工が床柱を逆さ柱に建てたため、その家は没落し、大工は病死したという話も残されています。 しかし、日光東照宮の陽明門には「魔除けの逆柱」と呼ばれる柱があります。この陽明門を建築した棟梁は、甲こおらぶんごのかみむねひろ良豊後守宗広という宮大工の名棟梁でした。棟梁は、建物というものは、完成すれば、崩壊は始まっているものと考え、完成させまいと「魔除けの逆柱」を建て、9分9厘で留めているのだという伝説が陽明門に逸話として残っています。閑話休題 日本書紀の雄略記に登場した新羅系の韋那部技術集団の棟梁であった眞根が、石を質にして使っていた斧は、どんな形の斧であったのでしょうか。故吉川金次氏は大阪の眞名井古墳から出土したような斧でなかったと著書の中で説明していますが、刃巾が約5cmという小さな斧では、大きな堂宮建築には無理と思われます。この小さな斧は、立木の伐採用に使われた「切り斧」でないかと思われます。竹中大工道具館の渡辺主任研究員の調査報告書によると、法隆寺の古垂木の中には、釿はおろか、斧で斫ったままで、巾の広い斧刃で「ずばり、ずばり」と斫られていると説明しております。その当時、すでに刃巾の広い斧があったものと思われます。斧は古代の石斧と同じく縦斧と横斧があり、縦斧には「与岐」「鉞」「手与岐」「鉈」の4種類で、横斧は「釿」「片手持ちの手斧」の2種類となっております。与岐は昔から、立木の伐採用に使われてきました。四国では薄刃で軽く、鋭利な与岐を「切斧」とか「切木割」とも呼んでおります。肉厚があり、重い与岐を「木割」と呼び、薪割に使っておりましたが、現在ではほとんど使われておりません。鉞は「刃広」と呼ばれ、丸太材の側面を斫って、角材を作り出す道具でした。古い昔、中国では皇帝のシンボルとして鉞が権威の象徴でした。また鉞は、戦争の武器としても使われました。鉞を担いで熊に跨っている坂田金時(金太郎)の絵図や童謡を知らない人はありません。 昔、木に対して、いろいろな作法がありました。木きこり樵が山で木の伐採を行う前、山の神や木の神に対して、御神酒を供えて祈りを捧げていました。この作法を「斧よきだ立て」といい、杣屋は「鉞立て」と言っておりました。また大工は、家を建てるとき、斧や釿を入れることを「斧始め」とか「釿始め」と言って、御神酒を供え、関係者一同が、木に対してお祈りし、棟梁は工事の安全を祈願しておりました。(削ろう会会報25号 2003.01.19発行)

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