大工道具に生きる / 香川 量平
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雨宮氏の鉞45いる。他の斧と異なり、柄に対して刃が直角に挿げられている。現在の手斧と異なり、両刃であり、側面から見ると袋部中央と刃先が一直線上になっているので鑿としても使用可能である。(6)鑿斧型。肩がなく、縦に長い小型のもの。縦の柄を付けて鑿のように使用した。ただし両刃である。これに横柄を付ければ、斧としても使える。出土数が多いことから、広く普及していたようである。 以上が吉川氏の出土斧を分類した6種類でありますが古代斧の使用範囲は広く、斧は鋸の役目を果し、鑿や鉋へと発展していったのであると述べています。 我が国最初の漢和字書である『倭名類聚鈔』の工匠具、第百九十七の項に「鐇」「唐韻ニ云鐇ハ廣刃斧也」「斧」「兼名苑ニ云斧ハ神農造ル也、祕ハ斧ノ柄ノ名也」と書かれている。「唐韻」とは中国の唐時代の字書で、6世紀頃に作られたもので、『倭名類聚鈔』には「唐韻」とか「切韻」「広韻」という中国の字書の名前が登場します。『倭名類聚鈔』は後醍醐天皇の皇女、勤子内親王の命により、平安中期の学者である「源みなもとのしたごう順」が書き表した、我が国の漢和字書であります。 江戸時代の中期、大阪の漢方医であった寺島良安が書き表した『和漢三才図会』の中の第二十之三月録、兵器類の項に「戉まさかり」と「斧」が書かれている。中国の字典である広韻の中に神農が斧を作った。神農というのは、中国の古い伝説上の帝王であり、斧の刃は広く、これを鐇という。杣人、木を斫る者は鐇也、樵人、薪を割る者は樵斧である。軍中で所用するものは鉞也と書かれ、鉞が兵器であると説明しています。 竹田米吉氏の『職人』という著書の中に、明治時代、建築の工事現場で働いていた職人の様子が書かれている。「杣屋」押角は必ずはつらねばならない。大工事になれば、大工より能率の上がる杣屋に依頼した。杣屋は、ただ木の面をはつる専門家である。大きな斧(金時の斧に似ている)を使用した。何寸角でも、角面一杯の木片を三尺も五尺も続けて出す。この木片はいかなる場合でも杣屋の物で、彼等の定収入であった。杣屋の仕事場には必ず「木こっぱや片屋」が出入し、手ごろの束にして持ち出した。昔、東京の家庭で使用する焚付けに、立派な木片の束を売っていたが、あれは杣屋が斫った木片である。と竹田氏が13歳の大工見習当時、幼い頭に映じた幻のような記憶の模様を書いている。 現在では鉞で木材を斫る仕事を見ることは殆どできないが、山梨県塩山市に在住の宮大工・雨宮国広氏は今も鉞を使って木材の斫りを行っている。鉞の斫痕が美しく、茶人などに好まれる。しかし、この斫りは危険が伴う荒仕事であり、鉞は名工の鉞鍛冶が鍛えたものが要求される。戦前、岡山連隊の兵舎建設に従事した古老の大工から、工事現場で、杣屋が自分の足を斫り、大怪我をしているのを見たことがあると聞いたことがある。 新潟県西蒲原郡分水町に宮大工、沖野工務店がある。棟梁の沖野幸平氏が現在使っている「難聴」という鉞を見せてもらったことがある。大工用の中型の鉞であるが、沖野棟梁が長年愛用したが、欠けず曲らず見事に鍛えられ、何一つ欠点がなく、日本一という鉞鍛冶「難聴」の作品に感心していた。この鉞は新潟県高田市の鍛冶屋が鍛えたもので「難聴型」と呼んでいる。初代の鉞鍛冶が耳が遠かったので、差別用語を避け、このように呼ばれるようになったそうである。 現在、鉞の他に割斧、切斧、小割斧と大工用の鉞と5つに分類されている。 竹中大工道具館の渡辺晶氏の調査報告書によると、現代の切斧の型が、(1)去手型(北海道)、(2)信州型(長野県)、(3)紀州型(和歌山県)、(4)土佐型(高知県)。現代の斫斧では、(1)釧路型(北海道)、(2)馬追型(長野県)、(3)土佐型〈片刃〉(高知県)、(4)筑前型(九州)。現代の大工斧では、(1)釧路型、(2)仙台型、(3)甲型(東北)、(4)東型、(5)高田型、(6)信州型、(7)名古屋型、(8)土佐型で、その地方によって肉付や型がすこしずつ違っております。 高知県では、徳川時代の初め「コウガイ型」とも「ニタリ型」(元禄時代の笄のかたち)とも呼ばれる純土佐型の斧が製造されたが、大正の初期より、県外から

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