木の葉型鋸(複製品)48石包丁より、石鋸の方が効率が良かったのであろう。岡山県倉敷市に「倉敷考古館」がある。江戸時代に建てられたという土蔵造の米倉を改装したものである。岡山県上道郡幡多村の「金蔵山古墳」(5世紀頃と思われる)の副室から「合子」と呼ばれる土器に入れられて出土した「鋸」「釿」「やり鉋」「鑿」「刀子」「鎌」などの鉄製品が展示されている。説明書によると、出土した鋸は長さが約14.4cmから13.7cm、幅は約2.5cmで、厚み約0.2cmで鋸歯がこの頃すでに両刃となっている。小さな鋸の上と下に柄が付けられていたと思われる木の跡が少し残っている。復元模造した鋸も一緒に展示されている。この小さな鋸で一体何を挽いたのであろうか。動物の角や骨を挽いたのか。それとも、古代の人々が毎日使ったと思われる「櫛」を作るのに、この小さな鋸が使われたのか興味は尽きない。 『古事記』の上巻に「櫛」の物語が登場する。その一節を書かせてもらうと「伊邪那美命」が火の神を産んで、女の大切なところが焼けて黄泉国に旅立ち、「伊邪那岐命」が会いに行くのであるが「故、左の御角髪に挿させる『湯ゆづつまぐし津津間櫛』の男柱一つ取りかきて、一つ火燭して、入り見ます時に、蛆たかれ‥」やがて泉よもつしこめ津醜女に追われる物語がある。また「速すさのおのみこと須佐之男命」が八俣大蛇を退治するとき、「かれ速須佐之男命、乃ち、其の童おとめ女を『湯ゆづつまぐし津爪櫛』に取りなして、御みみずら角髪に刺さして、其の足名椎、手名椎神に告り給はく‥」と書かれている。古代の神々も櫛を必要としたのであろう。しかし昔から「櫛を拾うな」という言い伝えがある。櫛を拾うと苦(九)死(四)となり、苦しみて死に至ると祖母に教えられている。 話は変わって、明治9年、法隆寺より東京国立博物館に献納されたという大工鋸がある。現在、この鋸は国宝に指定されている。しかし中央部で折れた形跡がある。全長約74cmで、折れ口と思われる先端部に6個の小さな角穴があり、この角穴を使って、折れた鋸を継ごうとしたのでないか、という説があるが、それは無理だろう。昔、聖徳太子がこの鋸を使って、法隆寺の五重塔の真柱を挽いたという伝説がある。 名古屋市に酒井田淳一さん(73歳)という目立職人の名人がいる。酒井田さんの説によると、この古い鋸は「台切鋸」ではなかったかと言う。台切鋸というのは挽手が両方にいて、力を合せて交互に押しては引くという形の鋸で、別名「夫婦鋸」とも呼ばれる。現在残っているような鋸がもう一挺あって、6個の穴に別の鋸を取付け、両方に挽手がいて、大きな丸太の材を挽いたのだと、酒井田さんは推理しているが、私もその説にはうなずける。神戸の竹中大工道具館の元館長であった嘉末国夫氏は、西暦577年に百くだら済から造寺工が賜られているが、この国宝の鋸は、その当時の工人たちがっ百済から携えてきた可能性が非常に高いと説明している。 昭和55年に広島県福山市の草戸平軒町遺跡から、全長約46cmの「木の葉型鋸」が出土して脚光を浴びた。13世紀頃のもので横挽鋸であり、中世に活躍した鋸である。現在復元され、広島県立博物館に展示されている。また三重県上野市の下郡遺跡から15世紀頃の「木の葉型鋸」が出土した。全長約48cmの横挽鋸で、出土した粘土層が完全な酸欠状態であったので、腐食せずに完全な形で残り、ナゲシやアサリもあり、貴重な資料となっている。現在、玉鋼で複製され、神戸の竹中大工道具館に展示されている。この「木の葉型鋸」は『春日権現験記絵』や『石山寺縁起絵巻』『松崎天神縁起』の写本ではあるが、中世の大工の仕事ぶりや大工道具を見ることができる。特に「木の葉型鋸」を使っている大工の表情がなかなか面白い。しかし、絵師が描いたものであるから無理なところもある。大きな釿を片手で振り上げ、木をはつろうとしている絵があるが、大工に言わせると、「それは無理である」と誰もが言っている。 「鋸のこぎり」という名前がどうしてつけられたのかは様々な説がある。古い昔には「ノホズリ」と呼んでいたようで、平安時代の初期、『皇大神宮儀式帳』の中に「乃の保ほ岐ぎ利り二ふた柄つか」と記されている。江戸中期の学者であった新井白石が書き表した『東雅』という我が国の物名を解釈した辞典に「ノ」は刀なり。「ホ」は刃という語の転なり。「キリ」は切るなりと読み、「刀に似て歯のある物也」と説明している。昔は「ノホギリ」とか「ノコズリ」と呼んでいたようである。(削ろう会会報28号 2003.12.22発行)
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