大工道具に生きる / 香川 量平
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和漢三才図会よりテ刀ニ有レ その23  鋸の話(2)49 鋸のこぎりと誰が名付けたのだろうかと昔、古老の大工に聞いたことがある。この物知り大工は「昔、大きな縦挽鋸(大鋸)や大きな横挽鋸(台切鋸)は中国からノコノコと韓国を渡って日本にやって来たのでノコと誰言うとなく呼ぶようになったのだ」と言ったが、その話は信用できない。承平年間(911-938)の平安中期の歌人であり、学者であった 源みなもと順のしたごうという人が書き表した漢和辞書『倭名類聚鈔』の工匠具、第百九十七の「鋸(のほきり)」項に「四聲字苑ニ云鋸八音拠、和ル歯者也」と書いている。そ名能保岐利、似レののち徳川時代の正徳2年(1712)大阪の医者であった寺島良安が書き表した『和漢三才図会』の上巻の第二十四の百工具の項に「舟鋸」「引廻し」「根隅鈎、祢ねずみがかり須美加賀利」「大鋸」「前挽」「台切」と絵図入りで説明している。また宝暦11年(1761)金沢兼光が書き表した『和漢船用集』にも、『和漢三才図会』と同じく「刀に似て歯の有るもの也」と鋸の説明があり「ノコギリ」と読ませている。 私が木曽の山中で枝下ろしをしている職人から聞き取った話では、木に登って枝下ろしをする道具であるため、古い昔から「ノボセキリ」と呼ばれていたのが、次第に「ノコギリ」と呼ぶようになったのであろうという話を聞いた。この「ノボセキリ」が「ノコギリ」の語源であるように私は思っている。厚木市の前場幸治氏も私の話に同感である。 平成6年、神戸の竹中大工道具館、開館10周年の記念企画展で『東方道具見聞録』が紹介された。その解説書に中国の鋸の話が書かれている。「中国で、最もよく使われている鋸は、大小さまざまな枠框鋸である。張縄をねじって締めつけることで、鋸身がピンと張る。大きいものは二人で挽いて使用する。小さい鋸は一人使いで、木材の切断や細工に使用する。日本のように縦挽き横挽きの歯型の区別はほとんどなく、どの方向に切るのも同じ框鋸で作業する。その他に溝の切り込みを入れる溝切鋸や、細かい曲線を挽くための弓鋸などがある。弓鋸は弓形の竹の柄に取付けた糸鋸で、竹の弾力で歯を緊張させている。」 中国の鋸は石器時代(数千年)前の石製・貝殻製・骨製の鋸から、銅・青銅の鋸を経て、戦国時代(紀元前5~3世紀)には鉄製のものが現れた。初期の鉄製鋸は、板状や刀型などである。框鋸の出現はかなり遅れ、宋代(12世紀)の「清明上河図」に初めて框鋸が描かれている。 『東方道具見聞録』の中に「かまきりと鋸」の話が逸話として書かれている。その話を書かせてもらうと、鋸の起源について、民間には次のような話が伝わっている。ある年、皇帝が宮殿建造に魯班を召し出し、三日間で千本の木を伐るように命じた。その当時、鋸という道具はなく、斧を使って木を倒していた。魯班は弟子達を集め、必死になって働いたが倒せたのは2日で500本であった。皇帝の命令に背けば生命はない。途方に暮れた魯班は木下で大の字に寝ころんでしまった。その時突然、魯班の腹の上に1匹の大きなカマキリが落ちてきた。魯班はカマキリの前足の鋭利なギザギザに気付くと、その足をもぎ取り、自分の手の甲を引いてみた。引けば引くほど深く食い込み、鮮血がほとばしった。コレだと訝る弟子達を尻目に鍛冶屋へと走った。カマキリの前足を手本に、徹夜で鋭利な刃を付けた薄い鉄の板を20数枚作った。魯班は3日目の早朝から、弟子達と共にその道具を使って残りの500本の木を切り倒した。カマキリの前足の鎌にヒントを得て、魯班は大工道具の中に鋸という新しい道具を付け加えた。これが『東方道具見聞録』に書かれている中国の鋸の逸話である。 また見聞録の中の「中国の大工の修業と道具」の話も面白い。大工には親代々の「祖伝」の大工と、親方に弟子入りする「師伝」の大工がある。長江下流地方の大工によると、十代後半に弟子入りし、修業期間は3年間。弟子入りのときには「拝師酒」、独立するときには「満師酒」という宴会を行ったという。昔の修業期間は無給で、親方に公私共に仕えなければならな

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