大工道具に生きる / 香川 量平
50/160

50かった。現在では1年から2年の修業のこともある。 修業はまず大型枠鋸での製材から始め、斧、鉋、鑿、墨掛けの順で学ぶ。墨掛けは一番難しい仕事で、一番最後に学ぶという。一人前の大工になると、100点前後の道具を所有するが、日々の仕事には必要な道具だけを道具箱や袋に入れて現場に持参する。 「カマキリ鋸」の伝説話に登場する「魯班」は今も中国で大工の神として仰がれ、大工は誰もが魯班の子であると信じている。また魯班は「ものさし」も作り出している。北斗七星の文曲星に教えられた「ものさし」は、良き寸4つ、悪き寸4つからなるもので「魯班尺」とも「北斗尺」とも呼ばれている。大工の神と仰がれている魯班は実のところ大工などではなく、古代中国の科学者であり、数学者であったといわれる。15歳で子夏の門に学び、のち建築学の基準である「規矩準縄」を考え出した人物であると伝えられている。 私が中国の「指金」を求めて雲南省の昆明を旅していたとき、農家の広場で框鋸を使って木を挽いている現場に出合ったので、農家の主人に、通訳を通じて挽かせてもらいたいと言ったら、挽いてもいいと言うので、挽いていると主人が「この男、なかなか上手だ、手つきがいい」と言う。「この男、日本の大工だ、大工の棟梁だ」と通訳が主人に言ったが、棟梁という言葉の意味が通じなかったようだ。框鋸を使ってみると、日本の鋸の優秀さをしみじみと感じたものだった。 この一人挽の框鋸を大型化したものが二人挽の「大鋸」と呼ばれる縦挽鋸である。大鋸が大陸から我が国に伝えられたのは室町中期(1400年)前後とされている。この二人挽の大鋸を「框付縦挽製材鋸」と呼んでいる。この大鋸が現れるまで、我が国には大型の縦挽鋸はなく、大きな丸太材を楔や大きな割鉈で打ち割って、建築用材を得ていた。その方式を「打ち割り法」と呼んでいる。その打ち割り方式では材の無駄が多く、打ち割った木面を釿やヤリガンナで仕上げるのに大工は大変に苦労していた。しかし、打ち割る良材も乏しくなってきた矢先、大鋸が現れたのである。それまで、打ち割ることができなかった松材や欅材の木取が可能となり、堂宮建築の木工事が一躍向上したのである。 大鋸がどのような経路で我が国に伝えられたのかは今もって不明である。そのような訳で「天狗の大鋸」と呼ばれるのが富山県の五箇山村にあり、昔天狗が空から取り落したという伝説がある。この大鋸は全国でも数少なく、現在、貴重な存在である。この大鋸の伝来について、知人の元船大工から聞き取った話がある。この船大工は、昔「倭寇」が朝鮮半島か中国大陸から分捕ってきたものであろうという。倭寇が出現したのは13世紀から16世紀の間で、「大鋸」や「台鉋」が文献に表れるのが14世紀頃である。倭寇の船団には営繕として船大工が必ず同乗している。倭寇が着岸した港の造船所で船大工が分捕って持ち帰ったものが広まったと言うのである。田中健夫氏の著書の『倭寇』によると、初め20隻ほどの船団が急速に兵数3000人とか船数400隻余と大規模な倭寇に膨れ上っているとある。私の素人考えだが、大鋸や台鉋の出現によって木造船の木取りは敏速となり、台鉋によって木造船は、手触りが良くて美しく仕上げられ、倭寇の木造船の生産が急上昇したと考えるのである。 この二人挽の大鋸から挽出される鋸屑を「おがくず」と昔の人が呼んだ言葉が、今も庶民の間で使われている。しかし大鋸はあまり長く使われなかったようである。大鋸に代わって、1490年頃、一人挽の縦挽鋸である「前挽大鋸」が現れた。しかしこの鋸を誰が作り出したのかは今もって不明である。鋸身が広く効率のよい縦挽鋸であったが、楽で使いやすいよう所々に改良が加えられ、今も東京の林以一氏らが現役で良材を挽いている。動力の製材機で良材を挽くと、摩擦によって熱が加わり、良材が変色するからである。江戸中期、寺島良安の著である『和漢三才図会』に前挽大鋸が書かれている。「長二尺、濶サ一尺一寸。齒皆向レ前其柄屈シテ竪ニ引キ一爲レ板ト」とある。「鋸の長さ二尺、広さ一尺一寸、歯は皆前に向き、柄は曲っていて縦に大木を挽き、板となす」と解説しているが、鋸歯が皆前に向いているという解説はおかしい。 昭和35年頃、四国の製材所で製材機の台車に乗らない大きなラワン材を、前挽大鋸で二つ割に挽いていた木挽職人を見た。彼等を「木挽」と呼び、きつい重労働に耐え抜くため、昔から「木挽の一升飯」と呼ぶ諺がある。この木挽が挽いていた前挽大鋸は首が長く、広い鋸身の中央部が縦に鍛接されていた。この木挽は、初老の男で鋸は玉鋼であると自慢していた。 私が大工の見習であったころ、親方の作業場の広場で「木挽」が大きな松丸太を前挽大鋸を使って二階差や胴差、入口差などを角材に挽出していた。「シャリ、シャリ」と木を挽く鋸の音の良さが、今も脳裏に深く焼付いて忘れることができない。その木挽は大きな男で、太い腕には黒い毛が多く生えていて、見るからに力が強そうで、重労働に耐え抜く忍耐力を持ち合せているように思えた。二大木ヲ(削ろう会会報29号 2004.02.24発行)

元のページ  ../index.html#50

このブックを見る