近藤義明氏が鍛えた尺鋸 その24 鋸の話(3)51 昭和18年頃といえば、第二次世界大戦の真只中で鋼が不足して、どこの金物店にも鋸がなく、人々は困っていた。今のように便利なガスや炊飯器などがなく、竃でご飯を炊くのも、風呂を沸かすのも、古材を挽いて薪を作り、それを燃やしていた。その頃、ある鋸屋が製材所で昔使っていた帯鋸の銹びたもので「雁頭鋸」を作り、売り出した。しかし鋸身に「定平」がないので、挽くたび「パタパタ」と音をたてるので、父はその鋸を「蝿たたき鋸」と名付けて呼んでいた、懐しい思い出がある。今も農家の古い納屋など解体していると、その片隅で蝿たたき鋸と出合うことがある。大工が使う尺一寸の両刃鋸の中にも、定平がなく腰が弱くて挽くたび「パタパタ」と音をたてる鋸があり、「蝿たたき鋸」とか「するめ鋸」と呼び、安物買いと言って、その大工を馬鹿にした。 大工は一代の間に生活費を割いて何十枚という鋸を購入するが、年老いて自分の手元に残る鋸はほんの僅かである。 手元に残った8寸の両刃鋸があった。親方が30数年使い、私に譲り渡してくれて30数年、二代にわたって使ったものである。目立てを繰り返したため、身は痩せ細り鋸巾は1寸(約3cm)程となっていた。譲り受けるとき親方は、「この鋸は『玉八』だから大切に使え。」と言った。「玉八」というのは、砂鉄から「たたら製法」によって作られる「玉鋼」のことである。昔の古い刃物には玉鋼で鍛えられたものが今も数は少ないが残っている。この二代にわたって使われた「玉八」の8寸鋸は折れず、曲がらず、鑢やすりに甘く、木をよく切らす、見事な鋸であった。多くの大工が見た中で、一人の大工が「鋸も良いが、使い手も良かったのさ」と私を誉めてくれた。名工が鍛えた鋸も、玉八の鋸も、使い手が悪ければ長年の使用に耐えることはできない。大工はすべての道具を手入れし、大切に長年使わねばならない。また大工道具は身体の一部であり、手を延長したものであることを忘れてはならない。 長年にわたって私と苦楽を共にした八寸鋸は仕事を止めさせて、鋸の権威者である東京農大の星野欣也先生に譲り渡すことにし、その夜は讃岐の地酒で思い出を回想しながら飲み明かした。「先生のところに行っても、さすが香川棟梁が使い込んだものだけあると誉められるものになるのだぞ」と言い聞かせ、我が娘を嫁がせる思いで、東京に旅立たせたのであった。 私の手元にもう一枚の両刃の尺鋸がある。兵庫県三木市の「近藤義若」の商標を持つ鋸鍛冶、近藤義明氏が26歳のとき、安来の白紙で初めて鍛えた第一号の鋸である。鋸鍛冶の家に育った近藤氏は初代の近藤力松氏を師に長い年月修業に励んだ。泣いた日が何十回とあったと昔を回想する。今は三代目の長男久登君が新しい鋸を考察して売り出している。 私が大工の見習いでいた頃、古老の大工から聞いた鋸にまつわる昔話がある。幕末の頃、会津(福島県)に中屋助左衛門という名工の鋸鍛冶がいた。その頃江戸の町で土蔵破りが横行した。蔵の鉄格子や錠前が何の苦もなく挽き切られていた。奉行所の調べで、このような鋸を鍛えられるのは、会津の中屋助左衛門か、仙台の大久保権平であると突き止め、奉行所は二人の鋸鍛冶に、当分の間鋸を鍛えてはならないというお咎めを出したという昔話を聞いたことがある。 「道具屋」という面白い落語に古鋸の話が登場する。昔江戸の下町に、与太という、訳もわからず二束三文の古道具を売っている男がいた。その日は火事場で拾ってきた赤く銹びた鋸を3挺売り出していた。そこを通りかかったのが目利きの大工の棟梁。鋸を手にするなり、棟梁「こいつはアマイなあ。」与太「甘くないよ、なめてみな。」棟梁「なめて甘いんじゃあねえよ。良く焼けてねえと言っているんだ。」すると与太「良く焼けているはずだよ、昨日焼け跡で拾ってきたんだから。」昔の面白い古鋸にまつわる落語である。大工が使う鋸は、焼入れがあま過ぎると切れず、硬すぎると目立てが厄介で使いものにならない。 大工仕事で一番きつい仕事といえば昔から「一錐、二鋸、三釿」という大工言葉がある。錐もみの仕事もたいへんであるが、何といってもきついのは鋸挽きの仕事だあろう。そのため大工は名工が鍛えた鋸を誰もが手に入れようとするが、高値のため手にすることは容易ではなかった。私の親方は刑務所で服役する鍛冶工が鍛えた「無銘」の鋸を安価で良く切らすのだと言って、買い求めていた。無銘の雁頭鋸が痩せ細って私の手元にある。多分そのような鋸であろう。讃岐の大工
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