宇迦之御魂神(宮城護国神社)土佐型手曲鋸55は稲荷神で、農民が豊作を祈る神である。また大工は、この女神を「屋やぶねとようけひめのみこと船豊宇気姫命」と呼び、大工の棟梁が上棟式の折、棟札に書き付ける女神である。棟札には、もう一柱の男神が書き付けられる。「屋やぶねくくちのみこと船久久遅命」である。この男神は木の神で、古事記には「久久能智神」、日本書紀には「句くくのち句迺馳」と記し、この二柱の神は、家を永久に守護する神として、昔から大工の棟梁が「棟札」に書き付けるのである。「屋船」とは何か。屋とは舎しゃや屋といって、家という意味であり、船とは大おほね根といって、樹木のしっかりとした根を表す古語で、柱によって舎家を支え、しっかりとした家が建っている意味である。豊宇気姫命は、家の屋根の葺草を司る神とされ、木神と草神の二柱の神によって家が守られている、と民俗学者の折口信夫氏は述べている。 四国松山の鍛冶の名工、白鷹幸伯氏も稲荷神を鍛冶の守護神として祀り、全国の宮大工から、その腕が尊敬されている。また故千代鶴貞秀氏から昔聞いた話であるが、初代の故千代鶴是秀氏も稲荷神を鍛冶の守護神とし、見事な作品を数多く遺している。大工は誰もが、これらの作品のどれかを一度は使ってみたいと願望している。 兵庫県三木市の鍛治師の多くは「天あまのまひとつのかみ目一箇神」とも「天あまつまら津麻羅」とも呼ばれる鍛冶の祖神を守護神として祀っている。三木の鉋鍛冶の名工、山口房一氏の「天てんいちもく一目」という鉋は、「天目一箇神」にあやかって名付けたと聞いている。また、鋸鍛冶の近藤義明氏は岐阜県の南宮大社の主祭神である「金山彦神」を守護神としている。鍛治師たちは、火の神である「火ほのかぐづちのかみ之迦具土神」と毎日闘いながらも悠々と仕事を続ける。また鍛冶たちが口ずさむ歌が面白い。「嫁に来るなら鍛冶屋においで、足で飯めし炊き手で金かねのばす」何と悠長な歌だろう。 四国の土佐(高知県)には昔から「土佐鋸」と呼ばれる丈夫な鋸が鍛えられている。大工用の両歯鋸は少ないが、山鋸が多く「土佐型手曲鋸」で、片歯鋸の黒打鋸が有名である。しかし最近、木の伐採にチェーンソーが普及し、土佐手曲鋸の姿は消え去った。しかしこの有名な黒打鋸は、鋸鍛冶が鍛えた鋸跡が鮮明に残り、打ちっぱなしの状態で、しかも鎚のみで見事に「定平」を作り出している。腰も強く、切れ味も抜群である。「定平」という鋸の名称について、故吉川金次氏は「鋸身に研削によって合理的な厚薄をつけること。腰をつけるともいう。」と説明している。黒打鋸が、鎚のみで鋸刃に厚薄をつけるのは高度な鍛冶の技術が必要であったといわれる。土佐(高知県)は全土の八割が山林であるため、林業が盛んで、昔から良質材の生産に努力している。「通直、完満、無節」を目標に苗木づくりから伐採までを計画的に進めている。 高知県土佐山田町に「原福鋸工業所」がある。原豊茂氏の「土佐鋸の起源」についての説明によると、「土佐鋸は天保年間、片地村山田島鍛冶業の尾立団次なるものが、安芸郡田野村において、中島長左衛門より前挽大鋸の製法を習得して、前挽大鋸の製造を始めたのが片地における製鋸業の始まりと云われる。それ以来、150年余り黙々と歩み続け、父より子に、師匠より弟子にと技法が伝えられ、片地村が前挽大鋸の主生産地となり、一路躍進を続け、鋸の銘も片地村の『片』を入れて『片某々』の刻印を打ち込み、土佐鋸の『片』という銘はこのような訳で生まれた」と聞いた。原福鋸の三代目である長男の耕一氏は、山鋸を鍛えているが「土佐鋸の強さはご覧の通りである」と山鋸を真二つに折って見せ、粘りの強さを私に見せた。この鋸を「長者鋸」と呼び、山で働く人々は誰もが腰に吊している。また土佐では、鋸の呼び寸法と刃渡り寸法が同じである。 土佐山田町に「尾立寿雄」という土佐鋸の名人がいると聞いて伺ったが、故人となられていた。奥さんの
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