大工道具に生きる / 香川 量平
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 その27  幻の横挽鋸59 奈良県のヒビキ遺跡で昔、大豪族であった葛かつらぎし城氏の王宮跡が発見されたと新聞紙上で見たが、この大きな建物の主葛城氏は、第21代雄略天皇の怒りに触れて焼き打ちされて衰亡したとある。この焼け落ちた建物は一体誰の手によって建てられたのであろうか。雄略天皇といえば古事記に登場し、大変に手荒な行動をとった天皇と伝えられている。天皇のお抱え工匠であった猪名部の眞根が、あるとき、斧の刃先を石で痛めたのが理由で、天皇に殺されかかった話は有名なのだが、焼け落ちた葛城氏の王宮を雄略天皇のお抱え工匠であった眞根が建てるはずはあり得ないと私は思う。すると眞根以外の建築集団がいて、葛城氏の王宮を建てたのでないかと考えられる。これらの建築集団は4世紀の末、すでに新羅の国から我が国に渡来し、帰化して、大きな建物を建てていたのである。 新羅の国から渡来していた工匠たちの大工道具はどんなものであったのだろうか。『江戸萬物事典』によると大工道具を古い言葉で次のように書いている。「規(き)コンパス」「矩(く)さしがね」「準(じゅん)みずばかり」「縄(じょう)すみつぼ」「 (しん)すみさし」「釿(きん)ちょうな」「 (し)やりがんな」「鋸(きょ)のこぎり」「鑿(さく)のみ」「錐(すい)きり」「鑽(さん)三つ目きり」「槌(つい)つち」「鑢(りょ)やすり」「鏨(せん)たがね」「鎚(つい)鉄づち」「削刀(さくとう)小刀」「鐇(ばん)巾広のおの」「斧(おの)こぎわり」「釘(てい)くぎ」などであるが、新羅の工匠たちはこのような呼び名の道具を持っていたのであろうか。 この工匠たちが持っていた横挽鋸はどのような鋸であったのだろうか。幻の鋸と呼ばれ、今も謎のままである。この年代に作られた鉄製の鋸は各地の古墳から出土しているが、大変に小さく建築には使いものにならない。権現山古墳から出土した両歯鋸は24.1㎝(約8寸)であるが、これでも建築に使用するのは無理であろう。しかし新羅から渡来した工匠たちはその当時、大きな建物を建てていたのであるから大きな横挽鋸を使っていたはずである。 飛鳥時代、仏教伝来と共に聖徳太子は百くだら済の国より、多くの建築技術者を呼び寄せた。百済から渡来した工匠たちは、新羅の工匠たちが建てていた掘立式の建築ではなく、礎石の上に柱を建て、枡組で軒を支える見事な仏寺建築であった。太子は難波(大阪)の玉造に四天王寺を建立した。「紀」には四天王寺は難波の荒あらはかむら陵村に移建したとあるが、太子は院内に施せやくいん薬院や悲ひでんいん田院、療りょうびょういん病院の三院を置き、病人や親のない子供を助けたという伝説がある。また太子は法隆寺を建立した。その当時に使用したという鋸が現存する。「法隆寺伝来鋸」である。現在、東京国立博物館の法隆寺宝物館に展示されている。大建築に相応しい大型鋸であるのだが、途中で鋸が折れていて、つなごうとしたような形跡があるので、今もいろいろと話題を呼んでいる未解決の「飛鳥の鋸」である。 仏教伝来と共に聖徳太子が百済の国から呼び寄せたという大勢の建築関連の技術者の中の工匠たちや、それより以前、我が国に住みついていた新羅の国の工匠たちが使っていたはずの横挽鋸は文献もなく出土例もなく、彼らは一体どこへ横挽鋸を持って行ってしまったのであろうか。鋸は薄い鋼板であるため、使われなくなった鋸は瞬く間に土と化してしまったのであろうか。しかし私はいつかこれらの鋸が出土するものと信じている。新羅や百済の工匠たちが使っていたはずの横挽鋸を私は「幻の横挽鋸」と呼んでいる。建築には絶対横挽鋸は不可欠であり、もし横挽鋸なしで、あの大建築を全国どこの大工に依頼しても、お断りされることであろう。しかし同年代頃と思われる鋸が韓国の古墳から出土しているというから、彼らもそのような横挽鋸を使って、あの大建築を完成させたのであろう。 奈良の正倉院に「白牙把水角鞘小三合刀子」という三本組の刀子の中に「刀子鋸」と呼ばれる小さな鋸がある。その当時の貴人たちが香道をたしなんでいたので、その鋸を使って香木を挽いたのであろう。香道で使われる道具を香割道具と呼び、香鋸、香鑿、香槌、香鉈、香割台などである。香木を小さく挽き、米粒ぐらいに割り、銀葉と呼ぶ雲母板に乗せて加熱させ、香を「聞く」のである。余談になるが、香木には「六国列香」といって、伽きゃら羅、羅らこく国、眞まなか那賀、眞まなばん南蛮、寸すもたら門多羅、佐さそら曽羅の六種類に分けられている。伽羅はインド、羅国はタイ、眞那賀はマレーのマラッカ、眞南蛮はインドのマラバル、寸門多羅はスマトラ、佐曽羅はインドのサッソールなどから産出されるのであるが、土中か水中で百年以上埋もれていたものである。しかし今も採取する場所がどこであるのか秘密であるため誰にも判らない。 平成9年、正倉院展で「黄おおじゅくこう熟香」とも「蘭らんじゃたい奢待」とも呼ばれる大きな香木が出展されていた。蘭奢とは人をほめる言葉で、聖武天皇がこの香木の香気が優れているので名付けたという言い伝えがある。解説による

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