大お鋸が(ミュージアム氏家蔵)60と熱帯のアジア産で昔、中国を経て日本に輸入され、東大寺に伝わったという。長さが156㎝で重さが11.6㎏ある大きなものであるが、切り取ったという三者の付箋がある。「足利義政拝賜之処」「織田信長拝賜之処」「明治十年依勅切之」とあるが、明治十年のは明治天皇が切り取ったところである。正倉院は開封役の勅使でなければ開封できないのであるが、豊臣秀吉と徳川家康の二人は蘭奢待を、うまうまと切り取っている。家康が切り取ったという蘭奢待の一片が、神奈川県川崎市の中川家に今も伝世しているという。 奈良市五条町にある国宝の唐招提寺金堂が現在、解体修理中であるが、この寺院は西暦759年奈良時代、唐僧の鑑真和上によって創建された律宗の総本山である。第45代聖武天皇の招きに応え、鑑真和上は12年間、6度に及ぶ多難な渡航を乗り越え、奈良の都に辿り着いたとき、すでに両目を失明していたといわれる。一昨年、福井県の宮大工直井光男棟梁の案内で、解体修理中の唐招提寺の建築部材を見学させてもらった。1200年の時を経た建物には、柱の内倒れや構造変化がかなり見られていたという。しかし今回の平成大修理により、健全な状態を取り戻し、奈良時代の建築技法が後世に伝えられることは誠に喜ばしいことである。 今回見学させてもらった建築部材には「幻の横挽鋸」といわれる挽跡が各所に見られていたが、特に驚いたのは内陣の折上組入天井材に切り込みを入れた鋸の挽跡であった。伊東市からこの見学に同行していた鋸目立の名人長津勝一氏が、その挽地を見て大変に驚き、その当時使っていた「幻の横挽鋸」の優秀さを誉めた。現在の大工が使っている両歯の9寸鋸か、尺鋸の江戸目で挽いたような挽跡に、見学者一同も目を瞠った。長津氏の説明によると、当時の鋸歯はイバラ目であったはずである。この挽地は、かなりいい鑢を使って目立し、鋸板の歪みやアセリも完璧に行なわれていたのだろうと言い、鋸挽する工人たちも、その当時としてかなり高い鋸挽の技術力を持ち合わせていたのだろうという説明を聞いた。 天井板も見学させてもらったが、1寸程の桧の割り板で、下端の見付部分は槍鉋で仕上げられているが、天井板の裏側は割り肌そのままで凹凸がひどく、釘打ちも大変苦労したことであろう。この天井板に使われていた割り肌を見ると、その当時、縦挽鋸がなかったことを証明するようなものであると思えたのである。また、約1200年前の建築部材の一つ一つに当時の棟梁や工人たちの汗とあぶらの苦労が染み込んでいるように思えたのであった。 唐招提寺が建立された頃、我が国には直材で木目の通った桧や杉が豊富に自生していたのであるが、次第次第に伐採されて、14世紀頃になると多くあった良材が不足し始めたのである。しかし幸いなことに、その頃大陸から二人挽の「大おが鋸」と呼ばれる大型の縦挽枠鋸が伝えられたのである。それまで割り材を加工して一本の角材を得るのに大変苦労していたのであるが、この大鋸により、思いのままの木取りが可能となり、木材加工の手間が大幅に減少し、堂宮建築の工事が短縮されたのである。そのような訳で、この縦挽枠鋸は、我が国の木造建築生産に大きく貢献した道具であると人々に誉め称えられたのである。 しかしこの大鋸はあまり長く使われなかった。16世紀の末期頃、一人挽の「前挽大鋸」が現われて、二人挽の大鋸は次第に衰退していったのである。この前挽大鋸が出現した時代は天下統一を目指して武将が各地に城を築き、土木工事などの普請が急を要したので木材の需要が増大し、各地に前挽鋸が急速に普及していった。木挽職人も大忙しであったことだろう。またこの縦挽鋸によって薄い天井板や床板など、建具材に使用される小割材の木取りも可能となり、我が国の建築構造に変化をもたらしたのが、この前挽大鋸であると言われている。 我が国の鋸鍛冶も長い年月をかけ試行錯誤を繰り返し、苦労しながら世界に例を見ない見事な手作鋸を鍛え上げた功績は偉大なものである。しかし最近、機械づくりの替刃式の鋸の進出で彼らは被害を被っている。いい得意先であったプロの大工も最近は替刃式の鋸を使う時代となってしまった。古い昔から伝えられ、築き上げられた手作鋸の技術が次第に消滅していくのは建築大工も同じで、胸が痛む毎日である。(削ろう会会報34号 2005.05.16発行)
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