和漢三才図会より その28 鑢(やすり)の話61 もうずいぶん昔のことであるが、私が中学校に通っていた頃、身体が貧弱で血色の悪い生徒がいた。しかし彼は組一番の成績で特に英語が得意であった。毎晩、猛勉強を続け、もう外国人と英語で話ができると私に自慢したことがあった。しかしその当時、時世は悪く、第二次世界大戦の末期であり、英語は敵国語であるため、授業から外すと校長が朝礼で指示した。喜ぶ者もいれば、残念がる者もいた。その後、町の書店では英語で書かれている読み物は、すべて日本語に書き換えられていた。英語の授業を一切廃止するという校長の言葉に衝撃を受けたのか、彼は学校をよく休むようになっていた。その頃、四国の高知県にアメリカ軍が上陸してくるという噂が流れ、人々は不安な日々を送っていた。北満の警備に当たっていた関東軍の兵士が続々と本土防衛のため、高知県の海岸線に集結していた。空にはアメリカ空軍のB29爆撃機が4本の見事な飛行雲を引き、中国地方の都市を爆撃していた。時折低空飛行でアメリカ空軍のグラマン戦闘機が飛来し、列車のボイラーが20mmの機関砲と機銃掃射で撃ち抜かれ、列車が立往生するという始末であった。そんな恐ろしい日のことである。組一番の成績で通していた彼が急に夭ようせい逝してしまった。当時昼間の葬儀はままならず、日が暮れかかってから葬儀が行なわれた。 翌朝、父が彼の死を「猛勉強というのは自分の身体に雁がんぎやすり木鑢を毎日かけたのだ」と言い、「蚊の脛すねに鑢をかけるという諺があるが、可哀想なことだ」と言ったので、「雁木鑢とは何だ」と問い質すと、「鑢目が鋭く立っているもので鉄の不要部分を擦り落とすものだ」と言った。辞書には雁木とは秋空を飛ぶ雁の行列のように段々となったもの、あるいは船着場の階段の桟橋と説明している。また、違い棚が三段になっているのを「雁木棚」と呼び、古代の穀物倉庫にかかる梯子を「雁木梯子」と呼ぶ。 鑢の歴史はたいへんに古く、古代エジプトでは銅製の鋸や鑢が出土しているという。しかし鋸の権威者である吉川金次氏は「青銅鋸を一丁製作し、青銅の鑢を作るため、青銅の鏨で鑢目を切ろうとしたが、鏨の刃が一回で潰れた。だが何かうまい工夫があると思う」と説明している。古代エジプトの銅製の鑢は果して作ることができたのであろうか疑問とするところである。 「鉄の古代史」によると岡山県総社市の「随庵古墳」から鍛冶道具一式と鏨、砥石、鑢が出土している。この古墳は5世紀頃の築造とされている。また奈良県橿原市や宮崎県の遺跡から鑢が出土している。岡山県の金蔵山古墳からも鑢らしきものが出土しているが、小さな鋸が出土しているから、鑢はその当時使われていたものと私は思う。平成2年、正倉院の北倉から「十じゅうごうさやのおんとうす合鞘御刀子」が出展された。鞘は黒漆塗りで、一体の鞘に刀子6本、鑢2本、遣やりかんな鉋1本、錐1本の計10本が納められている。特に鑢は第45代聖武天皇の御遺愛の品であったと伝えられているもので、長さ18.9cm、本体11.3cmで、鑢は鬼目、柄は黒柿製、もう一本は紫檀製で実に見事な作りであった。他に「四合鞘御刀子」や「三合鞘御刀子」などがあり、その当時の役人たちが装飾と実用を兼ね、腰に着装したものであろうと説明していた。 平安時代の前期に書き表された漢和辞書である『倭名類聚鈔』の下巻に「鑢やすり子」と書き、「夜須利」とも書いている。「鋸歯を利する所以也」と書いている。また江戸時代の中期に書かれた『和漢三才図会』の百工具の項に4本の鑢を絵図入りで説明し、「四声字苑に曰く、鑢は鋸歯を鋭くする器具で銅、鉄をみがき、するもの也。思うに鑢は生鉄をまじえず鋼をもって作る。形はたたみたる扇のごとし、表と裏に細い刻目を作る。以て鉄器を摩まはく剥する。大小数種ありて大鋸を利する鋸歯は三さんりょう稜也。また獣角を磨くものは歯しそ麤、これを雁木鑢と名づく」と説明している。三稜とは三つの角という意味で三角鑢のことで、歯麤とは鑢目の粗いことをいう。
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