大工道具に生きる / 香川 量平
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 その29  「鑢」の仲間と雑学63この鬼目のようである。(4)波目鑢というのは鑢目が半円状に切られているもので、荒目と中目があり、鬼目と同じく、軟質のものを切削する。 鑢には「壷」と刻印が打たれているものが関西では多い。その理由を苅山信行氏は製造工程に赤味噌が重要な役割を果たしているので、赤味噌を保存する壷からとったとも、師匠すじの大阪の壷井豊次郎の壷からきたのではないかとも述べている。鑢の製造工程で、なぜ食用の赤味噌が必要なのか、疑問を抱くところであるが、鑢の焼入れ硬化に赤味噌が不可欠であり、味噌と鑢が古い昔から深い関係にあり、焼入れのときに赤味噌をつけるという技術は平安時代の前期にすでに行なわれていたという。 780℃の鑢が20℃の水に入った瞬間、鑢の表面は水蒸気膜で覆われる。水蒸気膜で覆われると、冷却が悪 昔、中国の唐の時代、李白という大詩人がいた。彼は幼少の頃から学問を志し、勉学に励んだ。しかし励めば励むほど学問の世界は広く、ついに嫌気がさし、故郷を捨て放浪の旅に出た。ある日のこと、古ぼけた軒下で老婆がせっせと鉄の杵に鑢をかけているのを見た少年李白は「何を作るのか」と老婆に問うと「この鉄の杵を鑢ですりおろし縫い針を作るのさ」と言った。その老婆の一言に、弱い自分の心に鞭を打たれたかのように「ハッ」と気付いた少年李白。忍耐強く努力すれば何事も成し得ることを悟ったのである。早速故郷に引き返し、再び学問の道に励んだという。これが「鉄てっしょ杵を磨みがく」という中国の故事である。また「磨まふさくしん斧作針」とか「石臼を箸にさす」という故事もある。 昔、木挽が木を縦挽する「ガガリ鋸」を雁木と呼んだ。縦挽鋸は鋭い歯が一列に並んでいるのでそのように呼んだのである。また、二重に大損をしたときなどに使われる「雁木と鑢」という古い諺がある。右側から鋭い縦挽歯で挽きとられ、左側からは鋭い鑢歯で擦り取られるという意味の諺である。大工の墨すみかね曲に雁がんぎかね木曲という墨出し方法がある。垂木や棒隅木の寸法をこの曲使いで割り出す簡単な方法で、その割出しを雁木曲と呼ぶ。くなって焼きが入らなくなる。結果、硬化不良を生じ、鑢は切れない。鑢に味噌を塗ると、冷却を妨げる水蒸気膜が付かなくなったり、膜で覆われてもすぐに破壊されたりして均一に冷やされ、完全な焼入れが可能となる。また味噌に添加した食塩が冷却用の水に溶けて、水の冷却能力が良くなり、焼きが入りやすくなり、焼入れの硬さは最高に達し、良く切れる。また味噌を塗ることによって、鑢の焼割れ防止にもなると苅山氏は説明している。食用の赤味噌と鑢の取り合わせが興味をひくところである。 戦後の日本を復興に導いたのは鑢であると言った人がいたが、裏方で日本の復興を支えたのは間違いなく鑢であろう。しかし最近は替刃式鋸やダイヤモンド鑢の進出で蔭の功労者である木工用鋸の鑢が、次第にその影を潜めつつあるのが実に痛々しく思う毎日である。(削ろう会会報35号 2005.08.08発行) 何の気なしに使っている台所用品の中にも鑢の仲間が多くいる。「おろし金」や「擂り鉢」である。おろし金は大根や山葵をすりおろす生活用品であるが、専門の鏨たがねで一つ一つ穿った目で鬼目と呼び、わさび目、いばら目、石目とも呼ぶ。金属製のおろし金は山葵の味が変わるので、昔から食通の連中は鮫皮のおろし金を好む。関西では「擂すり粉こぎ木」は男性を表し、擂り鉢は女性を表す。讃岐(香川県)では、それを「カガツ」と呼ぶ。カガツが割れたと言えば、村の娘が一人前になったという意味である。「美しいカガツを誰が割ったのだ」と若い衆の間で大騒ぎになったという昔話が今も残っている。 第二次世界大戦の戦中戦後、物資が不足し、小学生が使う「紙ヤスリ」がなく、母が木とくさ賊を煮て乾燥させ、二つ割りにして厚紙に張ってくれ、紙ヤスリの代わりに工作用に使っていた。木賊の表面には小さな突起が無数にあり、珪酸質が含まれているので、おろしが早く、子供たちが好んでよく使った。昔から「木賊と兎うさぎ」という心和む美しい絵図があるが、木賊と兎は相性が合うらしい。「竹に雀」も同じで、日本人の心を癒す絵図である。しかし木賊(砥草とも書く)は、古い昔から高級な工作物の研磨材として重宝がられてきた。櫛屋、ロクロ屋、三味線づくりの職人たちは今も大切に使っている。 また櫛は日本人の生活用具の必需品として昔から作

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