大工道具に生きる / 香川 量平
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出土した竪櫛(桶川歴史民俗資料館蔵)64られてきたが、その仕上げには今も木賊は欠かせない。一本の櫛を作り上げるまでには、長い年月材料の木を乾燥させ、木づくりして、下地を作る。次に「中抜鋸」や「山抜鋸」で間隔を揃えて挽きおろし、木賊を貼ったはずり用の「ガンギリ」と呼ばれる「葉鑢」で毛髪が滑らかに通り抜けるよう歯一本一本に細心の注意を払いながら削り磨き、手触りのよいまろやかな櫛に仕上げる。昔は鮫皮を張った「鮫さめやすり鑢」が使われていた。『古事記』の中にも「湯ゆづつまぐし津爪櫛」の話が登場しているように、櫛は古代から日本人にとって大切な生活用具であり、その加工に使うやすりが工夫されたのはいうまでもないだろう。 倉敷考古館に金蔵山古墳から出土した鉄製の木工具が数多く展示されている。その中に4世紀頃の作とされる小さな両歯鋸があるが、古代の人々はこの鋸を使って、アクセサリーや梳すきぐし櫛を作ったのであろう。また同古墳から鑢らしきものが出土しているが、私は鋸が出土している以上、鑢であると確信している。 慶長の頃に描かれたとされる狩野吉信の「職しょくにん人尽づくし絵え」という重要文化財の中に矢師が木賊を使って矢竹を磨いている絵図がある。矢師というのは弓の矢を作る職人である。絵には鷹の羽根を用いて矢羽根をつける者、矢竹を木賊で磨く者など昔の職人の姿が見事に精写されている。木賊は昔から今に到るまで高級な研磨材として多くの職人に使われている。ロクロ職人は最後の仕上げに木賊を丸く束ねて結束して用いる。また京都の高級家具を作る指物師や、三味線を仕上げる職人たちも木賊と椋むくの葉を今も併用している。 私が大工の見習いの頃には、欅けやきの床板などの最後の仕上げには表面を椋の葉を使って仕上げ、さらに落し掛や床框など、床廻り一式を親方が本漆をかけていた。見習いの私は、手を真っ黒にしながら堅炭を使って漆を研いだものである。椋の葉で仕上げているほうが漆の乗りが良いと親方は言っていた。また木賊や椋の葉を「葉鑢」と親方は呼び、仕事場の軒下には糸で通した木賊や椋の葉がいつも陰干しされていた。細工物や家財道具に住宅の床廻りが入念に手入れされ、光り輝いているさまを、昔の人は「椋の葉の百遍磨き」と言って、その人の手入れを誉め称えていた。 日常に使う爪切りについているのは簡単な単目の鑢であるが、本当の爪鑢というのは「三度切り目」の鑢で、往復にすりおろすことができる。昔、台湾に旅行した折、若い娘さんが「爪の手入れをしませんか」と上手な日本語を使ってやって来た。小さな道具箱の中には爪切りと爪鑢に「キサゲ」のような道具が入っていた。手入れを依頼すると二人がかりで変形した足の爪を入念に手入れして、マニキュアまで塗ってくれた。斜めにすり減った手の親爪を手入れしながら、色白の可愛い娘から「社長さんは何のご職業ですか」と笑顔で聞かれた懐かしい思い出がある。 第二次世界大戦の末期、四国地方では「燐まっち寸」が不足し、家庭の主婦や喫煙者が大変に困っていた。しかし古老の大工は毎日煙きせる管でよく一服するので、燐寸の入手を聞くと、巾着形の火打袋を見せて、「火打だ」と言った。香川県には「サヌカイト」と呼ばれる火打に適した黒曜石が産出する。この石と火打鎌をカチカチ打ち合わせると大きな火花を出す。火打鎌というのは、火打がねとも呼ばれ、鍛冶屋が作った炭素を多く含む鋼である。その当時には鋼などなく、古老の大工が使っていた火打鎌は、古びた鑢の小さく折れたものを使っていた。打ち出した火花を受け止めるのが火ほくち口と呼ぶパンヤである。パンヤは柔らかい「つばなの花」やイチビなどの繊維質に細かい炭の粉をまぶし、火花で燻りやすい。竃元の火移しは燻るパンヤに、薄板の先に硫黄が塗ってある附つけぎ木に燃え移すのである。この火花を打ち出す技法を火打と昔から呼び、一般の家庭では次第に神聖化し、家人の長い旅行や受験生が出発する早朝、邪気を払い精神を統一するため、頭上から火打を行なう習慣が今も我が国にはある。火打道具一式が入っている小さな箱を火打箱(火打筥とも書く)と呼び、家の小さなことを言い表す言葉である。建築用語で「九尺二間」と言えば六帖間で、「廻り八間」と言えば八帖間のことであり、小さな家であることを言い表した言葉である。 「セン」と呼ぶ道具がある。江戸万物事典では、「鏟せん」と書き、「サン」と読ませ、「ヤスリ」と説明し、鉋や釿(手斧)という意味を持つとある。右と左に木製の握り手があり、両手を持って使う。昔は木工用を

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