大工道具に生きる / 香川 量平
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京都石清水八幡宮の目貫の猿沖野工房の宮彫師・沖野 兼一氏66 その30  鑿の話(1) 我が国の古い神社や仏閣には彫りといい形といい見事にバランスの取れた欅の彫刻が今も数多く残されている。その中でも有名なのが左甚五郎の作と伝えられる彫刻で、全国各地に百ヶ所あまりあると伝えられているが、中でも日光東照宮の回廊の蟇股に彫られている「眠り猫」は甚五郎の代表作と伝えられている。この彫刻、見る位置によって眠っているようでもあり、目を少し開いているようでもあり、今にも獲物に飛びかかろうとしているようにも見え、今も観光客の目を楽しませてくれている。また甚五郎の動物彫刻はすべてが生きているのだと昔の人々は信じ、水を飲みに出る龍とか、畑を荒す鴨とか、数多くの伝説話がある。中でも目を楽しませてくれるのが、京都の石清水八幡宮の西門の欄間に彫られている「目貫の猿」である。昔、夜になると欄間から抜け出して野荒しをするので、時の住職が右目に太い5寸の竹釘を打ち込んだのが今も残っている。甚五郎が猿の彫刻を選んだというのは「火が去る(サル)」に通じ、昔から木造建築を火災から守るという火伏の役目を果たしているのだと伝えられている。 讃岐(香川県)の高松市に左甚五郎の七代目という左光挙氏がいる。ここに甚五郎が昔使っていたという鑿が多く残されていたが、第二次世界大戦によって、アメリカ空軍のB29の爆撃で、旧高松市と共にこれらの鑿も灰塵と化してしまった。惜しまれるのが、親方の遊左與半治から頂いたという「山やましろのくに城国西にしじんのじゅう陣住、理うめただみょうじゅ忠明寿」が鍛えた鑿である。甚五郎の墓は高松市三番町の地蔵寺にあり、今も市民や建築関係の人々によって守られ、静かに眠っている。 新潟県西蒲生郡分水町に沖野工務店がある。ここに宮彫師・沖野兼一氏がいる。欅の獅子鼻を完全に仕上るには一ヶ月を要するという。その計算でいくと、年に12個しか作れない。讃岐甚五郎は全国の有名彫刻を一人で作り上げたと信じている人が讃岐には多い。彼は41歳の若さでこの世を去っている。伊藤ていじ氏が述べているように、左甚五郎という人物は、「紀州系」「和泉系」「讃岐系」と各地に名人の宮彫師が数多くいて名彫刻を彫り上げたのであろう。 讃岐の田舎では今も住宅の座敷に使用する彫刻の欄間を互いに自慢する風潮がある。図柄には「松竹梅」「近江八景」「松に鷹」「錦帯橋」「四君子」など数多くあり、四君子欄間は「梅、菊、蘭、竹」の彫刻であるが、気品に満ち、風格が君子に似ているところからこの名がある。欄間彫刻は彫りも自慢の一つだが欄間の厚みも自慢の対象となっている。村一番という欄間は厚みが3寸で近江八景が彫られているが、残念ながら紅桧の台湾製である。戦後、福井県の欄間職人が台湾で指導したという日東彫刻公司が宜蘭県羅ルオトウン東にある。ここで日本向けの欄間を彫っている。彫る材はすべてが生木で鑿は「銀杏鑿」という風変わりなもので、木槌は使わず2尺程の樫の1寸5分角である。欄間の内法寸法は堂宮建築を除き、一般住宅では1尺2寸(36.3㎝)とするが、天井の高い場合には1尺4寸(42.3㎝)とする。その内法寸法にしておけば既製品の欄間がうまく収まるからだ。 鑿には木材を穿うがつものと石材を穿うがつものの二通りがある。古い昔から穴をあけるということを穿うがつと呼んでいる。鑿の歴史は大変に古く、古代エジプト時代に遡る。厚木市の前場幸治氏が撮影したエジプトのレクミラ墓の壁画の中に、鑿を持ち、ボトル型の木槌を使って穴を穿っている様子が描かれている。約3500年も昔のことである。またクフ王のピラミッド南側の地下坑から発掘された木造船はレバノン杉で作られていた

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