大工道具に生きる / 香川 量平
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金蔵山古墳出土の鑿(倉敷考古館蔵)67のを組み立てて展示している。枘付は銅製鋸が使われ、枘穴は銅製鑿で穿ったのであろうという説明を受けた。またエジプト考古学博物館には約3300年前のツタンカーメン王の遺品である黄金張りの厨子や玉座の椅子などが展示されている。しかしこれらの材質は黒檀で作られているので、その堅い材に銅製の鑿で枘穴を穿つのは無理と思う。錐を使ったか、焼通しで荒穴を穿って銅製鑿で仕上げたのであろう。 我が国の大工道具のルーツを手繰れば中国で、韓国を経て我が国に伝えられたものと考えられている。弥生時代の後期の集落跡や水田跡が昭和18年に静岡県の登呂遺跡で発見され、出土した板材に、多くの釿の刃跡や鑿の刃跡があり、板材に穴を穿った跡もあり、その当時鉄製道具がすでに使われていたと考えられている。岡山市の金蔵山古墳は5世紀頃の築造とされているが、その古墳の副室から「合ごおす子」と呼ばれる土器に入った鉄製の大工道具が発掘された。それは現在、倉敷考古館の二階に展示されている。その中に多くの鑿がある。「鉄鑿」と表示し、復元した鑿と共に昔の姿をとどめている。錆化して正確な寸法や姿を読み取るのは難しいが、刃巾の狭い鑿は2分鑿か3分鑿であろうか、やや鑿の形に似ているのは5分鑿か6分鑿であろう。柄を装着する部分はすべてが茎(なかご)とも(こみ)とも呼ばれる形となっている。説明によると、これら出土した鑿は叩き鑿などではなく、柄を装着して突鑿として使ったのではないかと言い、片刃で「裏スキ」や鍛接した形跡のある鑿が見受けられると言う。 東京国立博物館に山梨県豊富村の大塚古墳から出土した鑿が一本展示されている。5世紀頃のもので刃巾は目測で約1寸3分(4㎝)程で木製の柄は腐蝕しているが茎はあり、片刃のようで、現在の鑿の形に大変よく似ているので、韓国で作られたものでないのかと想像した。また、各地の古墳から出土する古代鑿は柄を装着する部分が茎式と袋式の二通りとなっている。茎式は現在の鑿の込みのある形式であるが、袋式というのは鍛冶屋が鑿を鍛造するとき、柄の装着部を丸く作り、柄がうまく収まるように鍛えたもので「袋鑿」と呼んでいる。 古代鑿は片刃と両刃(諸刃)とになっている。『続日本の絵巻』に「春日権現験記絵」や「石山寺縁起」の写本があるが、その中に大工が木材に跨がり、鑿を打ち込んで割ろうとしている絵図がある。これらの鑿は両刃で「材割鑿」と呼んでいる。その項には縦挽鋸がなく、片刃鑿は墨線の通りに打ち込めば正確な穴を穿つことができるが、両刃鑿ではできない。しかし15世紀頃に大陸から「大おが鋸」と呼ばれる二人挽の縦挽鋸が導入されると両刃鑿とも材割鑿とも呼ばれていた鑿は次第に姿を消したと言われる。 今も中国の雲南省昆明市や各地の青空市場では中国式の袋鑿が店頭で売られている。「柄はないのか」と通訳を通じて聞くと「柄は自分で作るものだ」「寇かつらはないのか」と聞くと「知らない」と言う。中国鑿は寇はないようである。また、「五ごきんこう金行」と書いた看板の店は金物店である。薄暗い店内には袋鑿が数多く並べられ、故西岡常一棟梁が昔、満州で買ったという飛鳥型の鑿がある。また棟梁が飛鳥型の袋鑿に曲がった柄を装着すれば釿としても使えると言われた話を思い出して、片刃の袋鑿と丸鑿を買い、五金行の店を後にした。 平成13年、神戸の竹中大工道具館で「木をうがつ」と題した企画展が開かれた。古代から現代まで建築の部材に穴を穿つ道具の発達史を写真とパネルで紹介し、縄文時代の鑿、弥生古墳時代の鑿、古代の鑿、中世の鑿、近世の鑿、近代の鑿を克明に解説していた。また、「東方道具見聞録」と題した企画展もあり、中国鑿が多く展示されていた。中国鑿はほとんどが袋鑿で、寇はなく、柄の頭はかなり痛んでいた。中国鑿は石器から青銅を経て鉄器に至った道具で、かなり古くから存在していたと説明されていた。中国では鑿の頭を叩くのは槌など使わず、今も斧の平面を使っている。反対に叩くことがあり、指のない大工が多いと聞く。館内には国内、国外の大工道具の収蔵点数が約二万点に達しているという。ここに集められた大工道具は幸運にも全国で生き残った道具たちである。 館内の三階展示室には名工の鍛えた鑿がある。「無銘の石堂」2寸の広鑿。石堂是一作。明治時代「加賀梅一」の作、1寸8分の広鑿と1寸の中薄鑿。明治−大正時代「左久弘」の作、6分の本叩きと8分の本叩き。明治−大正時代「善作」の作、8分の突鑿と8分の中薄鑿。「三代目善作」の作、1寸6分の大入鑿は

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