大工道具に生きる / 香川 量平
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善作四代目野村俊信作平鑿68 その31  鑿の話(2)縞模様の地金に首を廻して鍛える技法は実に見事で昭和初期の作品である。初代の善作、二代目が長男の徳次郎、三代目が次男の重次郎であるが、彼の作品には銘の入ったものが少ない。関西の大工であれば、「善作鑿」と言えば、名が高く、知る者が多く、今も年配の大工は使っている者が多い。 奈良県山辺郡都祁村吐山の農業、中尾政彦氏が三代目善作が鍛えた鑿、鉋、玄能、罫引を持っていることを知り、見学させてもらった。第二次世界大戦の末期、善作は大阪より妻子を連れて奈良の吐山に疎開してきた。農家の納屋を借り、鍛冶仕事をしては製品を食糧と交換して生活した。その貧しい時代に鍛えた墨流しの美しい文様のある9本組の本叩き鑿が中尾氏宅にある。善作の銘はないが見事に鍛えられている。その名工が昭和28年頃、仕事着の上に荒縄の帯を締め、大阪の町を一人、とぼとぼと歩いているのを見かけた人がいたが、その後の消息は不明で、「幻の善作」と関西の大工連中が呼んだ。しかし善作ファンの大工が追い求めたが、とうとう見つけることができなかった。しかし名工は去っても名品は今も残り、道具の愛好者たちの目を楽しませてくれている。富山県東砺波郡福 最近、大手の建築会社が大きなマンションを建て、安く販売したが、震度5の地震で崩壊する危険性があると国から判断されて、もったいない話だが取り壊している。実に馬鹿げた話である。そのマンションを設計し、販売した業者たちは、金儲けのために、人様の尊い命を石ころ同然に扱った。その悪い心に国民一同が今、立腹している。 昔、私が大工の見習いであった頃、垂木に釘一本打ち損じても親方が「人様の命を預かる大切な家だ、正確に打ち直すのだ」と大声で怒鳴られたものである。昔の大工の棟梁は人様の命を守るため、工事のすべてに細心の注意を払いながら家を建てていたのである。しかし地震で崩壊する危険ありということを知り得ないで一生一度の大買物をした側にも責任はある。知らぬ存ぜぬでは通らない。なぜよく調査しなかったのか、今の建築界の安い建物には注意を要する。その建物を見掛倒しと私は言いたい。野町広安に三代目善作の弟子である野村俊信氏がいる。善作四代目である。福井県武生市の宮大工、直井光男棟梁が野村氏と会い、見事な墨流しの平鑿一丁を購入している。 (削ろう会会報37号 2006.01.23発行) さて、鑿にも哀れで悲しい物語がある。兵庫県姫路市にある国宝の白鷺城(別称「はくろ城」)を築城したときの物語である。時の城主、池田輝政は9年の歳月を要し、堅固で壮大な5層6階の天守閣を築き上げた。大工の棟梁は達人と呼ばれる宮大工の櫻井源兵衛であった。源兵衛は精進潔斎して設計図を作成し、すべての工事の指図を自らが行ない、この大工事に取り組んだのである。そして源兵衛の血の滲むような努力と働きによって無事に城が上棟したのであったが、誰いうとなしに天守が東南に傾いているという噂が広まった。噂を耳にした源兵衛の妻が天守を見に行ったところ、噂の通り東南に傾いているではないか。妻よりその話を聞いた源兵衛は、女の目に天守の傾きが見えるのであれば、棟梁としての落ち度だ、失格だと涙を流して残念がったという。噂が普請奉行に聞こえ、天守より「下げ振り」をおろす指示が出され、地上一階の四斗樽に水が満々と張られ、鉄の大きな分銅が天守より四斗樽の水の中におろされたのである。それを聞いた櫻井棟梁は、下げ振りの神である「北極星(大工が昔から崇拝する垂直の神)」を一心になって祈願した

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