大工道具に生きる / 香川 量平
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和漢三才図会より69が、その甲斐なく東南に約3寸(9㎝)傾いていることが判明し、その傾きが城主に聞こえたことを知った櫻井棟梁は責任を感じ、長年愛用の大鑿を口に銜え、天守閣より飛び降り自殺したと伝えられている。時に棟梁60歳であった。しかし昭和に入っての大修理によって、傾いていた天守閣は地盤沈下によるものであったことが判明した。また天守の二層の心柱が約2寸(6㎝)傾いているのは城の安全性を保つため、わざと棟梁が傾けてあったことも判ったのである。昭和の大修理によって数多くの発見があり、櫻井棟梁の自殺説も今、疑問が投げかけられている。白鷺城秘話である。 昔から職人といえば酒好きの者が意外に多い。昔、讃岐には左甚五郎という名工の宮彫師がいたが彼も若い頃から大酒飲みで寛永11年、41歳の若さでこの世を去っている。そんなところから「左甚五郎鑿一丁」という故事が生まれたのであろう。また昔の大工や石工にも酒飲みが多く、その連中を「左党」と呼んだ。左の手には鑿を持つので「のみて」、右の手には槌を持つので「つちて」と呼び、左党とは酒飲み仲間のことで、「左利き」と言えば、酒飲みを表す大工の隠語なのである。昔の大工集団には数多くの掟があり、その長たる大工の棟梁は泥酔してふしだらな行為を人様に決して見せてはならない。また、その掟が守れぬ棟梁であれば、その資格はなきものという厳しい定めのようなものがあったと昔、古老の大工から聞いたことがある。 我が国の古い漢和辞書である『倭名類聚鈔』に鑿の説明がある。鑿は柄が付き、和名で能美と呼び、木を穿つ器である。檍けいとは鑿の柄の名前である。また『和漢三才図会』には、鑿は木を穿つ器であり、檍は鑿の柄であり、鑿には大小数種あり、「壷つぼのみ鑿」は竹を割った如く、丸い穴を穿つ。また「佐さすのみ須鑿」は柄の長さが尺(33㎝)近くある。「鐔つばのみ鑿」は船大工がこれを用いる、と説明している。 壷鑿の刃は丸く、捲まきのみ鑿とも呼び、現在では丸鑿と呼んでいる。また佐須鑿とは「大突」のことで、最近、三木市の高田良作氏が全長2尺6寸3分(約80㎝)で刃巾は2寸5分(7.5㎝)で柄は黒檀作りの大突を鍛えている。 鐔つばのみ鑿というのは、昔、船大工や宮大工が使っていたもので最近はほとんど見かけない。船大工が杉の船板を接合しようとするとき、船釘を通しやすくするため、この鑿を接合部に打ち込む。抜き取るときは柄の下の鐔を叩き上げて抜く。刃は薄く曲がったものと、直のものがあり、先端は尖り、片鐔と両鐔がある。船大工はこの鑿を「釘くぎさしのみ差鑿」と呼んでいる。また宮大工が使う鐔鑿は両鐔で太く、先端は尖り、和釘を打ち込む穴を穿つため、木部にこの鑿を打ち込む。抜くときは船大工と同様、鐔を叩き上げて抜く。近年これらの鑿も電動錐の普及で、その姿を見ることができない。しかし四国松山市の鍛冶、白鷹幸伯氏が錦帯橋用の大きな鐔鑿を製作している。 大工道具の中で種類と数が一番多いのは鑿である。その理由は大が小を兼ねることができないからである。鑿を大別すると「叩き鑿」「突鑿」「特殊鑿」の三つに大別される。叩き鑿を「本叩き」とも大工は呼ぶ。新築する構造材の加工に使う鑿で、一日中ガンガンと頭を叩くので鑿首も太く、刃も厚く頑丈な鍛えとなっている。しかし最近は電動工具の普及で「中ちゅううすのみ薄鑿」を使う大工が多い。昔は「穴屋」と呼ぶ穴ほり専門の職人がいた。一般の大工が使う鑿よりも一回り太くて頑丈な鑿であるため、「穴屋鑿」と呼んだ。玄能も大きなものを使っていたが、自分の腕力と体力に合う玄能を鍛冶屋に鍛えさせていた。叩き鑿を細かく分けると「追入鑿」がある。この鑿は大工が造作の折に使う鑿で、叩き鑿より一回り小さく、鑿首は細く刃も薄いものが多い。追入鑿は明治の初め頃に作られるようになったようであるが、それ以前は叩き鑿のちびて小さくなったものが使われていたという。現在の木工界で一番多く使われているのが追入鑿だといわれているが、最近の建築材は集成材が多く、鑿の刃先がひどく傷むので「粉末高速度鋼HAP40」という特殊鋼で鍛えられてい

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