大工道具に生きる / 香川 量平
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古墳時代の石鑿(倉敷考古館蔵) その32  鑿の話(3)71 昔から「油断大敵」とか「油断は怪我のもと」という古い諺がある。特に職人は油断すると諺通り怪我をしたり、作品が失敗することが多い。「千せんりょ慮の一いっしつ失」という中国の諺がある。賢者でも考えの中には一つや二つの間違いや失敗があるという意味である。しかし職人は昔から失敗することは凶であると考え、「お釈迦になった」という隠語を使ってきた。この言葉は関東の鍛冶職人が言い出したという説があるので、東京の石堂鉋製作所の石堂秀雄さんに聞いてみた。その言葉も使うが、失敗したことは「ズコ」と呼ぶのだと、父輝秀さんに教えられていると聞いた。また京都の仏師が言い出したという説もある。昔、仏師の見習いが、お盆休みを利用して小さな観音像を彫り上げた。それを親方が手にして、「これはお釈迦だ」と言ったのが世間に広まったという説もある。もう一説では、昔、鋳いもじ物師が青銅の観音像を作ろうとしたが、鋳型造りの、少しの間違いから吹き上がったものが、お釈迦様になっていたので、鋳物師たちが失敗したことを「お釈迦になった」と呼んだのが、世の中に広まったという説。また、その日が4月8日でお釈迦様のお誕生日でもあった。4と8という数の語呂合わせが失敗という言葉に相通ずるところから。この隠語が生まれ、今も職人以外の人々にも使われているという。 さて、鑿という道具は木工職人以外に石いしく工職人が石材の加工に数多くの鑿を使う。姿や形は違っているが、文字も呼び名も木工用鑿と変わらない。昔の石工職人は早朝から炉に火をおこし、その日に使用する鑿の焼き入れを行なって仕事場に向かったという。石材を小割する鉄製のクサビを石工は「ヤ」と呼ぶ。ヤ穴を掘る鑿には「一番鑿」「二番鑿」「三番鑿」があるそうだが、大工が使う鉋の順番によく似ている。鉋は「アラシコ」「チュウシコ」「ジョウシコ」と呼ぶ。また石工が餅臼などを仕上げるときに使う1尺(約30.3㎝)程の鑿を「ヒラノミ」と四国の石工は呼ぶ。刃先が菱形に鍛えられていて、鋭い角の部分で硬い花崗岩を見事に削り取ることができる。 昔、関西に丹波佐吉という石工の名人がいた。彼が「西行」の旅の途中、難波(大阪)の石材店で働いていたときのことである。職人たちが腕比べをやろうと言い出し、石の七福神を刻んで勝負しようとしたが、選者に贔ひいき屓者がいて、佐吉は二番手となり、不服の佐吉は石の尺八を刻んで勝負することを提案した。話は決まり、石工たちの細工は誰にも見せず、持ち前の技術を結集して尺八づくりに挑戦したが、誰も音の出るものを作り上げることはできず、佐吉のみが見事に音の出る尺八を作り上げた。その音色は実に見事で、人々を驚嘆させたという。その噂が宮中に聞こえ、第121代の孝明天皇に献上され、日本一の石工であると天皇よりお誉めのお言葉をいただいたという逸話が、今も石工の間に語り継がれている。しかし佐吉がどのような鉄鑿を使って彫り上げたのかは今もわからない。また鉄製の石割道具や鉄鑿が世界の七不思議とされるエジプトのピラミッドやインカの石積工事にはなかったという説だが、どうも私には納得できない。 石工は「石せっとう頭」と鉄鑿を使って石に穴を穿ち、大工は「玄能」と鑿を使って木に穴を穿つのであるが、どちらも物を組み立てるという意味がある。また鑿は、古い昔から「石鑿」「銅鑿」を経て、「鉄鑿」となり、人間の住まいづくりや物づくりに大変に役立ってきた道具である。最近は電動工具の普及で手を使って穴を穿つということが少なくなってきた。私が大工の見習いでいた頃は、すべてが手仕事で、大きな松の丸太の上具材に穴を穿つのは大変な重労働であった。撞しゅもくぎり木錐と呼ぶボールト錐で荒穴を穿ち、叩きの8分鑿を力任せに玄能で叩き、その上きつく捏ねるので、込みの元からポキリと折れることがあった。また、鑿がすべって自分の太股をプッスリと突くことが度々あったが、誰にも言えず、血の出るまま手当てもせずに穴を穿ち続け、夕方まで辛抱した。また、折れた鑿は鑢を使って新しい込を作りだし、穂首が短くなったので、柄を長く作ってすげ、再利用した。昔から叩き鑿の寸法と

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