大工道具に生きる / 香川 量平
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74 その33  鑿と雑学 我が国の国家予算は毎年増え続け、現在では何十兆円という大きな数字となっている。やがて将来「兆」から「京けい」という数詞になるだろう。これらを命数法と呼び、大数と小数とがある。江戸時代の数学者であった吉田光由が、その当時の人々に数学をわかりやすく解説した『塵じんこうき劫記』の中にある。大数は十、百、千、万、億、兆となる。本土と四国を結んだ瀬戸大橋が約1兆円で完成したと言われているが、京という数詞は兆の1万倍で1に0ゼロが16も並ぶという大きな数である。京の上には、垓がい、稊し、穣じょう、講こう、澗かん、正せい、載さい、極ごく、恒こうがしゃ河沙となる。この言葉は仏教語で阿弥陀教の中にある。恒河というのは天竺(印度)のガンジス河のことで、沙とは砂のことである。印度の人々はこの世を去ると成仏して仏となり恒河の砂となるのが一番の安らぎであると考えているようである。ガンジス河の砂を数えきることは出来ない。実に数の大きさをうまく表現している。そして阿あそうぎ僧祇、那なゆた由他、不ふかしぎ可思議、無むりょうたいすう量大数となる。ここまで来ると宇宙の果てで凡人にはわからない。 小数とは次第に小さくなっていく数詞で、分、厘りん、毛もう、糸し、忽こつ、微び、繊せん、沙しゃ、塵じん、埃あい、渺ぴょう、漠ばく、模もこ糊、逡しゅんじゅん巡、須しゅゆ臾、瞬しゅんそく息、弾だんし指、刹せつな那、六りっとく徳、虚きょ、空くう、清せい、浄じょうとなる。もう何もなく澄みきっている。これらの数詞は仏教の言葉に使われ、数の哲学である。しかしこれらの数詞はどこまで使われたか知らないが、昔の人々の思考の広大さに驚かざるを得ない。 最近の削ろう会では素人の削りが上手で、相馬市の山崎薫さん達は4μ(ミクロン)の削り華を見事に削り出している。1μといえば、1mmの1000分の1である。命数法の小数で4μといえば、どのあたりの数詞になるのであろうか。また木材研磨砥石工業所の木村潔氏は究極の研ぎ方法をいろいろ研究しているが、ヒバ材で2μ、官材の桧で3から4μが削り華の限界でないかと言う。京都の天然仕上砥石について理学博士の井本伸広氏の研究成果では、現在使われている仕上砥石は2億5千万年の昔、中国の黄土高原より偏西風に乗った黄砂が赤道近くの海に落下し、1000年1mmという気の遠くなるような状態で堆積したものと推測している。木村氏はごく微細な石英粒子や長石(珪石)粘土鉱物や絹雲母などが適度の割合で混ざり、粒子の層状効果で速く細く研げるのだと言う。 さて、昔から「鑿」と誰が名付けたのであろうか。韓国語か中国語か、木工職人の古老に聞くが今もわからない。平安時代の古い漢和辞書である『倭名類聚鈔』の下巻の鑿の項の漢字の側面に不明瞭な片仮名で「ノミ」と付してあり、「和名、能のみ美、木を穿つ器なり、檍けいは鑿の柄の名なり」と説明している。また『和漢三才図会』の百工具の鑿の項でも同じことが書かれている。ノミという呼び名はかなり昔から存在していたのであろうか。江戸時代、子供のために書かれた『江戸萬物事典(改正版)』の生産道具の項に鑿(さく)とは鑿(のみ)のことをいうと解説している。「鑿さくへきとうこう壁偸光」という中国の故事がある。壁に穴を開けて燈火を盗むという意味であるが、昔中国の漢の時代、匡きょうこう衡は少年時代、貧しくて隣の明かりで勉学に励んだという故事である。本当の意味は努力して勉学に励むことである。漢和辞典に「さく」と付く文字が多くある。鑿、鑿(さく、さく)、意味は(一)はっきりしたさま、(二)言うことが正確で道理あるさま。鑿井(さくせい)、井戸を掘る。鑿空(さっくう)、穴を掘る、新たに道を開くこと。鑿岩(さくがん)、岩石に穴をあける、岩石を打ち砕く。鑿泉(さくせん)、泉を掘る。鑿掘(さっくつ)、切り開く、穴をあける。鑿断(さくだん)、ノミでたち切る。鑿開(さっかい)、切り開く。鑿跡(さくせき)、ノミで削った跡などの説明がある。 我が国の古い建造物である法隆寺などには、斧、釿、鉇やりがんな、鑿などの痕跡が数多く残っているという。また静岡県の登呂遺跡には、水田の畔を作るのに用いられたという杉の矢板には、鑿の刃跡が数多く残っており、刃幅が8mmから5cmまで数種あるが、この鑿跡は袋ふくろのみ鑿に釿の柄のように曲がったものをすげ、両手を使って使用したのでないのかと思う。刃先は少し丸く両刃で蛤刃である。松山市の鍛冶、白鷹幸伯氏は法隆寺を始め、各地寺院の解体修理によって発見された古代の斧、釿、鉇、鑿などの刃跡の痕跡を調べて復元しているが、氏の考察力と想像力には脱帽である。また、1997年に『鉄、千年のいのち』という著書を発刊し、建築関係の人々に感動を与えた。また、故西岡常一棟梁と出合い、古代の大工道具の復元と、千年もつ飛鳥型、白鳳型の和釘つくりの名人といわれている。 その著書の中に、鑿に「さいがけ」をしたという西岡棟梁の話がある。江戸時代の鑿は鋼の鍛接部分が少ないので、使い古して鋼の部分がなくなると鉄を足し、鋼を足して元の大きさにして、また使っていたという鑿のさいがけの話である。昔から「さいがけ」というのは農家の人々が使い古した農道具を鍛冶屋に依頼して、鉄と鋼を足して鍛接し、新しく仕立て直すという鍛冶仕事の呼び名である。大工がさいがけを行な

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