大工道具に生きる / 香川 量平
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直光銘三寸鑿(直井光男氏蔵)75うのは釿である。私が大工の見習いであった頃には釿は毎日のように使っていたので鋼の切れた釿がよくあり、親方は隣村にある「信安」という名工の鍛冶にさいがけを依頼していた。新調する七割の値であった。この信安がさいがけした釿は実によく切れ、木に打ち込まれた二寸釘など見事にはつり飛ばしていた。短気できつい性格の信安の性根が鍛え込まれているのだと言い、信安の釿には大工たちが一目置いていた。吸いつくように切らすのだが、油断して自分の足に釿を打ち込んだとき、傷口が倍となるからだ。 ずいぶん前のことになるが、農家の古い住宅を解体していて、見事な上がり框をもらい受けたことがある。黒光りのした古い栗の木で、表面には釿の蛤刃と3cmほどの袋鑿ではつったと思われる刃跡が木の追目に沿って見事な紋様を呈していた。最初から組み込まれたものではなく、途中で取り換えられているので訳を聞くと、最初は柳の木で作られた上がり框であったが「この木には貧乏神が宿っている」と村の古老に言われて、金持ちの家にあった使用済みの古い框と取り換えたのだと言った。柳の木は上がり框などに使用しないように私は忠告を受けた。四国の農家では古い昔から落雷のあった松の木(あまり木)を新築する家に一本組み込んだり、古家に使われていたケヤキの欄間や上がり框などを再利用すると、その家は益々繁昌するのだという言い伝えが四国には今もある。しかし、建築材として使ってはいけないという木もある。それは栴せんだん檀やビワの木である。栴檀の木は昔、獄門のさらし首の台として使われていたという。また、ビワの木を屋敷内に植えると、その家人の血を吸うのだと伝えられていて、家に使ってはならないと昔、親方は私に言った。しかし西洋では、古い昔から人々にたいへんに尊敬されている木に樫の木(オーク)がある。鉄が実用化する以前、最も堅い道具作りに用いられたので、古代の神々が宿っている木として縁起の良い花言葉が数多くつけられている。 さて、私が現在使っている大工道具は関西型の播州もの(三木市産)が多い。この地方は古代から中国山地に良質の砂鉄を産し、倭やまとかじ鍛冶と韓からかぬち鍛冶の出合いの場所といわれ、鍛冶技術は早くから開けていたのであろう。三木城跡には三木市立金物資料館があり、昭和55年に消えた唱歌「村のかじや」の記念碑がある。また金物神社があり、祭神は「天あめのまひつのみこと目一箇命」鍛冶の神、「金かなやまひこのみこと山昆古命」鉄鋼の神、「伊いしこりとめのみこと斯許理度賣命」鋳物の神の三柱の神が祀られ、鍛冶職人の厚い信仰を受けている。江戸時代の天保年間、この地で播州鑿を開業したといわれるのが、宮脇喜八と礒野松兵衛で播州鑿の祖といわれる。 私が持つ播州鑿は鑿作りの名人、高田製作所の高田良作氏。初代は故高田彦三郎氏、二代目故高田稔氏、三代目良作氏、四代目は長男の賢一氏である。私が持つ追入鑿は大内鑿で、二代目の故大内覚三郎氏が鍛えたものである。初代の故大内光太郎氏は明治30年頃、家紋の柏印を商標として生産販売、二代目の故覚三郎氏、三代目の光明氏が柏印、宗家大内鑿として製造販売する、有名鑿鍛冶。別所町小林に五百蔵鑿製作所がある。私の叩きの一寸鑿は五百蔵幸三氏が鍛えたもので、名門鍛冶の作である。初代故五百蔵賢次氏、二代目幸三氏、長男の秀夫氏が三代目である。よく切らすので四国の大工が今も多く使っている。播州鑿が二本ある。盃の刻印が入った「黒田」鑿と「狐」の刻印の入った寸六の平鑿である。私は関東型の鑿は少なく「市弘製作所」の三代目であった故山崎正三氏の追入鑿一組と小信三代目の滝口清氏の彫刻鑿一組である。 江戸時代に石川雲蝶という名人の宮彫師が江戸にいた。越後(新潟県)にいい彫刻鑿といい酒、いい女がいると聞いた雲蝶、江戸を捨てて越後に赴き、名彫刻を多く残している。与板に舟弘三代目鑿鍛冶の船津祐司氏が鍛えた叩き鑿三本を今も使っている。見事な鍛冶である。福井県の宮大工、直井棟梁に「直光」の銘が入った三寸の平鑿を舟弘が打ち与えている。直井光男の頭文字が銘となっている。昔の『大工秘伝書』の中に大工道具のすべてが仏様の化身で、鑿は「本地薬王菩薩」の化身であると説明している。 (削ろう会会報40号 2007.01.22発行)

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