大工道具に生きる / 香川 量平
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菜切地蔵(高松市)白鷹幸伯氏使用の水砥石 その35  砥石のよもやま話79 古い昔、遠い新しらぎ羅の国から渡来した帰化人系の「猪い名なべのまね部眞根」という工匠が斧の刃先を石で痛めたのが理由で雄略天皇に殺されかかったという話がある。鋭利な刃物ほど石には弱く、今も大工は木材などに立ち込んだ砂しゃれき礫で鉋刃や鋸刃を痛めることがよくある。 しかし、石をも恐れなかったというのが弁慶が持つ大おお薙なぎ刀なたである。高松市牟礼町には源平合戦の古戦場跡があり、多くの史蹟が今も残っている。昔、弁慶が源氏の兵士のために朝食の準備をしようとしたが、俎まないた板がなかったので傍に立っていた石地蔵を倒し、その背中で包丁ならず大薙刀で菜を切り、義経以下の兵士に汁を作り食べさせたという「菜切地蔵」があり、今も人々の厚い信仰を受けている。約800年も昔のことである。弁慶が播磨の国(兵庫県)の書しょしゃざん寫山で修行していた頃、刀匠の叔父が3年の歳月を要して鍛え上げた名刀であった。それで石をも恐れなかったという伝説である。牟礼町は今も日本一といわれる庵あじいし治石の一大産地である。平家との決戦を前にして、良質の石で作られた地蔵の背中を借りた弁慶が早朝から大薙刀を研ぎ上げたのであろうと地元、菜切町の人々は今も言う。 優れた智慧を持つ人間は古代から砥石という有用な石を発見し、石斧や鉄器を見事に研磨してきた。砥石は人間と共に長い年月、生活を共にし、大変に協力してくれた大切な道具である。 前号でも述べた通り、砥石は荒砥、中砥、仕上砥の3つに大別され、天然の荒砥も最近は数が少なく「笹口砥」や「大村砥」がほんのわずか市販されているが、ほとんどが人造の荒砥である。昔から硬い刃物には軟らかい砥石を使い、軟らかい刃物には硬い砥石を使えと大工の見習いの頃から教えられてきた。今も研ぎ屋の職人は硬いステンレス鋼の包丁などは天然の荒砥である「大村砥石」などを使って研ぎ上げている。 平安時代に「源みなもとのしたごう順」によって書き表された『倭名類聚鈔』の鍛冶具の項に「砥」名は礪、細礪ノ石也と説明している。細さいれいせき礪石とは目が細密で黄色い砥は(あわせど)で「硎けい」とも書く。「磺」(アラト)と仮名が付してあり、名は磺、和名阿良度、麁礪ノ石也と説明し、「麁それいせき礪石」とは荒砥のことで「磑がい」とも書く。磑とは堅いという意味を持つ。「青礪」(アヲト)と仮名が付してあり、和名阿乎度、青礪ノ石也と説明している青礪を「めなしと」とも呼び、中砥のことである。平安時代すでに三種類の砥石が世の中に出て人々に使用され、特に工匠たちにとって砥石は貴重な存在で大切に使用されていたのであろう。 奈良の大工道具研究家のM氏は『平台鉋技巧』の中で、鋭利かつ美麗な研ぎの最大の要点は、荒砥、中砥、仕上砥のすべての砥石の砥面を眞正平面に保持しながら研ぐことにあると説明し、刃物を研いで砥石が減るよりも眞平な砥面を保ったため、研ぎ減るよりも、砥面の修正で砥石が減る方が多いという。しかし削りの名人たちは砥面の修正を鉄則と心がけて、少しも怠らない。昔の大工たちは、これを「砥しへい平」と呼んでいた。砥平とは砥面が眞平であることを意味した言葉である。私が大工の見習いでいた頃、古老の大工が眞平な道路にさしかかったとき、「しへい」だという言葉を聞いたことがあった。また砥しれい礪という言葉もある。研ぎ磨くという意味で、学問に励み、修業に努めるという意味でもある。 昔、田舎の野鍛冶の仕事場には入口のところに足踏みで回転する大きな丸い水砥石があった。砥石は半分ほど水に浸っていて、鍛冶屋は「笹口砥」で荒砥だと

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