大工道具に生きる / 香川 量平
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指金(下から)ステンレス尺・真鍮尺・鉄尺指金の丸目8大喜びで帰ったところで夢がさめるのです。魯般は早速「ものさし」を作り、見事な楼門を建立したという中国の伝説です。その伝説にもとづき、今もこの「ものさし」を北斗尺と呼んでいるのです。 古い昔、中国に震旦国があって、皇帝の「臣離婁」が「式尺」を考え出して作り、その後、魯般が伝えて、作り直したという伝承があります。 夢の中で分曲星から教わったという北斗尺の伝説話は、もしかすると天竺(インド)から、魯般が教えられて帰ってきたのでないのだろうかと一人考えしています。 魯般尺を「吉凶尺」とも門尺とも呼んでいます。理由は、指金の裏目の内目に刻まれている文字は吉凶になっています。「財」の寸法の中に入れば、仕合せよく、財宝を得る。建築では棟木や大黒柱の寸法に用いる。「病」の寸法の中に入れば、家内一同が病気多く、悪き事多し。「離」の寸法の中に入れば、早く親と別れ、子供とも離れ、すべてこと悪し。「義」の寸法の中に入れば、すべてのこと良く幸せで、思い通りになる。「官」の中に入れば、家の者出世して、すべての者、長生きができる。「劫」の寸法の中に入れば、家の者に非義、非道が生まれ、散財、盗難のおそれがある。「害」の寸法の中に入れば、家の者、死人多く、災難も多く、不吉の寸法である。「吉」(中国では本)の寸法の中に入れば、すべてのこと望通りになり、なすことすべて発達する。 このように、吉と凶になっている寸法であるため「吉凶尺」と呼ばれているのです。また指金一枚で昔の大工の棟梁は墨曲の術、いわゆる規矩術を使って、見事な木造の堂宮建築を建立しているのには驚かされます。 指金を鉄尺と呼んだのは、昔の指金はすべてが鉄製で、 玉鋼で作ったものでした。昔の大工の弟子は、朝一番に親方の鉄の指金を藁灰で磨くのが仕事であったそうですが、その後真鍮製の指金が製造されて磨く必要があまりなくなったのですが、「矩の手」が弱く、角に鉄を入れたものも出回りましたが、昭和の始め越後の三条でステンレス製の指金が作られて、木工職人は大変喜んだそうです。錆びることなく、矩の手も丈夫で狂いも少なく、弾力があって、大変に目盛が明解で、全国の木工職人を驚かせました。 しかし昭和35年に指金の使用が禁止されました。日本の法律が「尺貫法」を禁止したからでした。その当時の木工職人は大変に困り、指金の入手に大変でした。特に大工職人は指金がなくては在来工法での墨掛ができなくなるため、私も指金集めに一生懸命でした。特に私の親方は毎日カンカンに怒って、政府の行政の悪さに抗議するのだと、私たち職人にあたり散らしていました。その後、全国的に指金を残そう運動が盛り上り、永六輔さんが先頭に立って政府に強く抗議したおかげで、在来工法に必要な指金は使っても良いという通達が出た時の親方の喜びは大変なものでした。職人一同が朝まで親方の家で飲み明かしました。しかしその喜びも束の間で、私の親方は黄泉の国へと旅立ってしまいました。しかし私にこんな遺言めいたことを言い残しています。「お前は若いから、もし永六輔さんに会うようなことがあれば、貴殿のおかげで日本の建築文化が消えずにすんだ」と伝えてほしいと言い残してこの世を去りました。先日、奈良の松田豐さんにこの話をしたら、奈良には永六輔さんは時々こられるから、お礼を言いなさいと言ってくれています。指金の話はつづく。(削ろう会会報4号 1998.01.18発行)

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