大工道具に生きる / 香川 量平
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(削ろう会会報42号 2007.06.11発行)岡田昭次郎氏作 ビトリファイド砥石外丸・内丸鉋の研げる砥石著者が最初に建てた入母屋の八尾建 その36  建築のよもやま話(1)81昔から言い伝えられている。研ぎは人によって微妙に異なっているため、1mm千年という長い年月をかけて蓄積された天然の仕上砥を人が研ぐと、つまらぬ窪みが生じ、自分が研ぐ折に支障が生じるからである。 京都産の天然仕上砥の良さは、小さく球状化した石英の砥粒とセリサイト(絹雲母)が結合されたもので、研磨には最適の条件を持ち合わせている。研げば研ぐほど遊離砥粒は砕けて小さくなり、次第に刃先が鋭利に仕上がっていくのである。しかし、この作用は今も不明である。人造砥石や人造ダイヤモンド砥石の真似のできないところでもある。砥石の番数については前号で述べたが、紙ヤスリ(サンドペーパー)の番数も砥石と同じであるが、最近各社によって呼び名が変わっている。 私が大工の見習いの頃、「朴の木研ぎ」といって、面取り鉋の変わったものなど、合せ砥のかけにくい部分を刃先、刃裏を軽く朴の木で擦ると、不思議にまた切れるようになるのである。 昔、大工の見習を「弟子」とか「軽子もち」と呼んだ。軽子というのは墨壷から墨糸を引き出す部品で、大工の見習は指先を真っ黒にしながら親方の軽子を持ち、大きな松丸太の小屋組材に墨打ちする親方の仕草や技法を怒鳴られながら見覚えたのである。それで大工の見習を昔から軽子もちと呼んだのだ。大工の見習は長い年季奉公を辛抱しながら耐え、親方から数々の技術を盗み取り、また大工道具の良し悪しや大工のしきたりや昔話の全てを聞き取り、数年後年季明けとなるが、一年余りの御礼奉公で本明けとなる。 昔、讃岐(香川県)の瀬戸内に「塩しわくだいく飽大工」という集団がいた。また山口県にも「長洲大工」というのがいたが、その集団の中で年季が明けたものは誰もが「西さいぎょう行」といって、他国へ一人旅に出て、腕をさらに磨き、数年後その集団に加わるという習わしがあり、今も四国地方には西行という言葉が職人の間に残っている。 私も大工の年季が明けて数年間、苦しくて辛い旅を続けて故郷に帰ると、親戚から入母屋づくりで八尾建ての母屋の注文が入った。自分の実力を人様に初めて示すときがきたと不安ながらも心は躍った。柱材は桧の四寸角で小屋組の材は施主の山の松を伐採して使用するという。そして施主は、どの部屋の畳も自由に敷き換えができるようにという注文であった。四国では悔み事があると「流れ敷き」といって、畳の敷き換えをする習わしがあり、昔から悪事が流れ去るようにと言い伝えられている。関西の畳は長手が6尺3寸(1,909㎜)で、短手が3尺1寸5分(954㎜)で京間畳と呼ぶ。関東では長手が5尺8寸(1,757㎜)で、短手が2尺9

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