大工の秘伝書(竹中大工道具館蔵)82寸(879㎜)で田舎間と呼ぶ。その中間の畳が間あいの間まと呼び、長手が6尺(1,818㎜)で、短手が3尺(909㎜)の名古屋地方の畳の寸法である。 畳がどの部屋にでも自由に敷き換えができるようにするには、四国の大工は「角つのま間」という寸法を使用する。しかし、建てようとする柱が三五角の場合と四寸角の場合では、角間の寸法が異なり、柱間に「延び」とか「締め」という寸法が生じるので、間違いのない正確な墨掛を行なわないと畳が合わなくなってしまう。また延び、締めの寸法が小屋組まで正確にできていなければ無事に上棟することができない。私が一番最初に請負った入母屋造りの母屋がそのような注文であったので、全神経を集中し、無事上棟させた。今は亡き父が「よくやった、お前もいい腕になった」と涙を流して喜んでくれた思い出がある。辛くて長い辛抱に耐え抜いたおかげで、何ものにも負けない技術力と強い精神力が身に付いたのである。 大工は注文を受けた住宅が見事に完成し、施主が喜んでくれる仕事が多くできるようになると、人々から「棟梁」と呼ばれるようになる。実にいい呼び名で、大工になってよかったと思うときである。昔は「工匠」とか「番匠」と呼んでいたようであるが、棟梁という文字は家の棟木とか梁を表わす。棟とは「身むね根」の意で、身体の最も重要な胸のことであり、家の大切な部材を指す言葉で、大工のかしらと呼ぶ言葉にふさわしい。昔の大工の棟梁は「五意達者」の全てを会得し、品行方正でなくては棟梁と呼ばれる資格はなかったという。私が以前、西蓮寺という古寺の本堂を解体修理した折、先の住職の奥さんが私を「梓しじん人」さんと呼んだことがある。この言葉も、棟梁とか工匠という意味を持っている。最近は昔のような棟梁が少なくなってしまったのではないか。 大工は施主から家を建てるよう依頼を受けると、大安吉日を選び、最初に執り行なうのが、その土地の「地鎮祭」である。伊勢神宮での祭儀は33回といわれているが、一般住宅では「地鎮祭」「上棟式」「竣工式」の3回の祭儀に簡素化されている。地鎮祭というのは、施主がその土地を神からお借りするので、お許しを得るための儀式であり、土地の穢けがれを祓い清め、工事中の安全と、家を末長く守護していただくため、大地の守護神である「大おおとこぬしのかみ地主神」と「産うぶすなのかみ土神」に祈願するのである。そのため「とこしずめの祭」とも「地まつり」とも呼ぶ。 産土神というのは自分が生まれた土地の氏神様であるため「鎮ちんじゅかみ守神」とも呼んでいる。四国では生まれた子供を初の宮参りで泣かせて、神と初対面の挨拶をさせるので、氏神様を「ウブ神」とも呼ぶ。産うぶすな土という語源は大変に古く、第33代の推古天皇の時代、すでに呼ばれていたという。 また地鎮祭の起源も古く、第41代の持統天皇の時代に地鎮祭という祭儀が行なわれていたそうである。しかし近年、鉄骨や鉄筋コンクリート住宅が増えて、地鎮祭を起工式と呼んでいる。表題は変わっているが内容は同一である。また地鎮祭のほとんどが神官によって行なわれているが、寺院などの建築工事では、仏式の地鎮祭や上棟式が僧侶によって行なわれている。地鎮祭の折、工事の安全を願って、地中に埋納する鎮しずめもの物は現在、神官が持参するが、ミニチュアの人形や手鏡、御幣などである。 お隣の国、中国にも我が国の産土神らしき神があり、その神は「土とちこう地公」だろうとか陳ちんしゅんしん舜臣氏が述べている。天地創造のとき、上帝から「財気を地上の衆人に分かち与えよ」と命ぜられていたが、それを実行しなかったのは土地公の妻の土とちば地婆であった。そのため世の中には貧乏人が多くいるのだと述べ、土地公の誕生日の旧暦の2月2日には、貧乏人は腹いせに猫に食べさせるような粗末なものを供え、土地公の夫婦は牡かき蠣が嫌いというので、わざとそれを供えることもあるという。ところ変われば、である。 地鎮祭も無事終了し、大工が木工事に取りかかる直前、施主は棟梁始め職人や見習の一同に酒と肴で祝ってくれる。これも儀式のひとつで、工事の安全を願ってのことである。昔は「木こづくりはじ作始め」とか「手ちょうな斧だて」と呼んでいたが、現在は「釿ちょうなはじ始め」と呼ぶ。 近年、各地で職人の文化を守ろうという番匠保存会が発足し、正月2日、大工道具や衣裳を復元し、古式に則り「釿始めの儀式」が執り行なわれている。聖徳
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