大工道具に生きる / 香川 量平
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神木が道路の中央に・・(香川県)三内丸山遺跡復元の建物(青森県) 88昔の人々は信じていた。「触らぬ神に祟りなし」という諺があるが、神木には手出しは無用である。 日本書紀を山田宗睦氏が訳している中に、素すさのおのみこと戔嗚尊は「韓からのさと郷の島には金、銀がある。もし我が子の治める国に韓に渡る舟がないと良くない」と言い、すぐにひげを抜いて散らかしたら杉になった。また胸毛を抜いて散らかした。これは桧になった。尻の毛は槙になった。眉の毛は樟になった。そして、その用途を定めて、こう唱えた。「杉と樟、この両樹は舟にせよ。桧は美しい宮を作る材にせよ。槙は現世の人民が奥つ城(おくつき:墓)に臥す具(棺)をつくれ。また食べられる沢山の木の種はすべて、よく蒔いて生やしなさい。」 「素戔嗚尊の子を五いそたけるのみこと十猛命といった。妹が大おおやつひめのみこと屋津姫命。つぎに柧つまつひめのみこと津姫命がいる。この三神ともまたよく木の種を分布した。それで紀伊の国に移し奉った。そのあとで素戔嗚尊は、熊成の峯に居て、しまいに根国に入った」とある。大おおやまととよあきつくに日本豊秋津洲の全土に木の種を播いた神々であるので、素戔一族は植林集団であったのだろうと伝えられている。 1994年に青森県の三内丸山遺跡で地下2 mのところに、直径が1mを超える栗の柱根が長方形に整然と並んで6本も発見された。その栗の木は4000年から5500年も前のものであることが判明し、考古学者を驚かせた。縄文人は何のためにこの巨大な建物を造ったのであろうか。海を監視する物見櫓か、国見のための望楼か、それとも神殿か、と議論を呼んだが、結論の出ないまま発掘現場の隣にロシアから栗の大木を取り寄せ、復元したのが現在の建物である。プロの大工が見て、溜息をついた。実に不格好で素人臭く、縄文人たちの自慢の作とは思えない。おそらく彼等は柱の接合部分はヌキ構造とし、楔で柱を堅く固定したと思う。現在の建物は柱に股を取り付け、繋ぎ梁をその上に乗せて蔓で縛っている。強い南西風が吹き抜けるという青森地方では蔓は腐り、柱はぐらつき、永久に保つことはできないと思う。素戔一族が木の種を播く以前より、青森の山々には青々とした栗の大木が生い茂り、実は食用とし、のんびりと縄文人たちは森林浴を愉しんでいたことであろう。 島根県大田市三瓶町に「三さんべあずきがはらまいぼつりんこうえん瓶小豆原埋没林公園」がある。縄文の森発掘保存展示棟には縄文時代そのままの姿で埋没した杉の巨木を見ることができる。三瓶山が火山で噴火して発生した火砕流が一気に谷を埋め尽くし、杉の巨木が埋没してしまった。埋木の年代は縄文時代の後期で3500年から3700年頃のものという。素戔一族が植林するより遙か昔、三瓶山辺りには杉の巨木が生い茂っていたのである。 素戔嗚尊が胸毛を抜いて散らかしたのが桧になったと日本書紀の中にあるが、この木は数千年の長寿を保ち、木肌は緻密で高貴な雰囲気を持ち、耐朽性に富み、ヒノキチオールを多く含み、古い昔から日本の建築界では最高の木とされ、素戔嗚尊が予言した通り、法隆寺を始め、数多くの社寺建築に使用されてきた。桧の美林といえば、長野県の木曽谷であるが、この美林が今に残るのは江戸時代に尾張藩の厳しい管理体制によるもので、盗伐には「枝一本に腕一本、木一本には首一つ」という恐ろしい掟があり、人々はその山を「お留山」と呼んだ。木曽谷には昔から「木曽五木」と呼

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