大工道具に生きる / 香川 量平
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大工道具の神様・故村松貞次郎先生と共に  その3  指金の話(3)9 「削ろう会」の皆さん、すごしやすい季節になりましたが、お元気で頑張っていることと存じます。 指金の話がつづきますが、その前に故、村松貞次郎先生とのお話をお聞き下さい。 1993年、神戸の竹中大工道具館で「大工熊さん物語」の企画展が開かれていた会場の3階で先生とお会いした時のことです。「大工の神様は聖徳太子ですが、大工道具の神様は村松先生です」と申し上げたら「そうですか」と言いながら「大工道具を愛する人はいい人ばかりです、香川さんもその一人です」とお褒めの言葉をいただきました。そして「これからも大工道具の研究を続けて下さい」といわれました。実に惜しい先生を亡くしたものです。「削ろう会」の皆さんも先生の意志を継いで、大工道具の研究と技術の向上に向け頑張りましょう。 大工の三宝の一つである指金の話がつづきます。昔、指金を「まがり金」と呼んでいたのか、「江戸時代に大工さんとは名が良いが、心の内はまがりがね」と読んだ狂歌があります。「棟梁さんと呼んでくれれば聞きなりは良いのですが、大工の棟梁の心の内はたえず仕事のことで気を揉み、晴々とした気持ちになれず、いつも心の内がまがりがねのようだ」と読んだものですが、実に良く棟梁の心をとらえ表現したものであると感心させられています。 また「指金の裏の目読めぬはヘボ大工」という川柳もあります。指金術のむつかしさを表しています。「ヘボ大工、無双の割に日を暮らす」という川柳は、昔、田舎の台所にあった煙出しの引き違いの窓で、貫板で作っていた、見たところごく簡単そうに見えるのですが、実際に作ってみるとなかなか割込の墨出しがむつかしいのです。『大工早割秘伝書』の中に「無双窓早割之法」として説明しています。 私の知人に木箱を作る名人がいますが一昨年、朝顔留の胴体の墨出しが「タンジント(平面三角法)の計算では出しにくい」と言って「大工はこの墨出しを指金一本で出すそうだが」と尋ねにやってきましたので、大工早割秘伝書の中に説明してある「朝顔留及び胴付墨出仕様」を見せたら、何のことなく解決したのです。そんな面白話はまだまだ数多くあります。昔の大工の棟梁は指金の術(規矩術)を使って見事な木造建築を今に数多く残していますが、建築技術の高さと、知恵の深さに唯々頭の下がる思いであります。 徳川秀忠が将軍職であった頃の慶長13年(1608年)に平内吉政と、正信の父子によって書き表されている『匠明』という秘伝書の中に「木割」(木砕)が実に明確に書き表されています。また奥書には、大工の棟梁たるものは「五意達者」でなくてはならないと説明しています。五意とは「式尺の墨矩、算合、手仕事、絵様、彫物」とあります。式尺の墨矩とは木割、算合は木割値と墨付けの計算あるいは積算、手仕事とは実地の工作、絵様と彫物は彫刻の下絵図の作成と実技であると説明し、この五意にすぐれ、常に怠ることなく平面計画と立面の良さを追及すること、さらに手本とすべき過去の建物を良く見て批判することが必要であると述べています。 この平内吉政の親子は実に建築学に熱心であったと思われます。その秘伝書は平内家の家伝として代々引き継がれ、人目に触れることはありませんでした。しかし平内大隅正信から幕府作事方大棟梁として十代目の平内大隅廷臣まで伝承されましたが、廷臣は代々の極秘伝とされた規矩術を一般公開したのでした。そして『規矩術要解』とか『算法直術正解』の著書を発行し、最後の『規矩新書』では、指金術による乗法、開平、開立などを解説しています。その当時、彼は江戸の三大和算家の一人であったといわれています。規矩術の一般公開によって大工の技術は急速に向上し、後に数々の名棟梁が誕生したのでした。この規矩術のすべてを会得した大工の中から「壷金師」と呼ばれる職人が表れたのです。 彼らの大工道具は指金一本と墨壷、墨指のみであったといわれています。 『大百科辞典』規矩術解説(三上氏)の説明によると、「規矩術」とは「町見術」と同様で測量法の系統をひいたものらしいが、實永年間、蘭人カスハルの伝うる所があったといいます。 長崎の人、樋口權右門尉により1624年から1644年

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