大工道具に生きる / 香川 量平
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丸亀城の石垣92 その40  勾配の話 香川県の丸亀市に別名「亀山城」とも「蓬莱城」とも呼ばれる丸亀城がある。慶長7年に生駒親正のよって築城されたものである。天守閣は木造で日本一小さいが、石垣の美しさと石積みの見事な技法に驚かされる。天守閣に向けて四段階に積み重ねた石垣の中で特に目を引くのが三の丸の北側の石垣である。20m以上の城壁が続き、特に隅角部は「扇の勾配」とも「三日月勾配」とも呼ばれていて、実に美しく観光客の目を引くところであり、花崗岩の石垣は瀬戸内の島々から切り出されたものである。 天正11年、豊臣秀吉によって築城された大阪城には瀬戸内の小豆島から巨石が石垣として数多く運び込まれている。中でも有名なのが「ふりそで石」と「たこ石」である。大潮の日を利用して巨石を筏に釣るし、瀬戸内を渡り、大阪城へと運んだといわれる。この巨石の「ふりそで石」は娘の晴着である袂のふりそでに形が良く似ているところから、この名があり、「たこ石」は雨に濡れると、左下に蛸の紋様が表われるので、このように呼ばれている。今も小豆島の浜には大阪城に行けなかった残石が残っている。 さて、大工には「水平」「垂直」「勾配」と不可欠の条件が数多くあるが、中でも重要視されるのが屋根勾配である。昔から、この勾配によって家を美しく見せるか否かが決められると言われてきた。勾配とは傾斜面の傾きの度合を表すもので、1尺に対して片方が1寸あがれば1寸勾配と呼び、尺あがれば尺勾配となるが、この場合は「矩勾配」と呼ぶ。これを大工は勾配が早いと言う。昔、私の知人が山水の油絵を描いて私に見せ、自慢した。しかし山裾に描かれている茅葺屋根の勾配がゆるいので矩勾配にした方が良いと言ったら、矩勾配とは何だと問い質ただされ、説明したことがあった。伊勢神宮の神明造や、世界遺産に登録されている白川郷の茅葺屋根などは、すべて矩勾配である。 茅葺屋根に続き、勾配が早いのは土蔵の屋根である。古い昔から6寸勾配にしろと大工仲間や親方から教えられてきた。最近に建てられている土蔵の屋根勾配は五寸勾配のようである。破風建とも切妻屋根とも呼ぶ土蔵の屋根勾配は早い方が美しく見える。土蔵は火災から財産を守るために作ったものであるが、古い昔には「借かしあ上げ」と呼んでいたが、その後「土つちぐら倉」と呼ぶようになり、現在では「土蔵」とか「倉」と書き、呼んでいる。 もう30年も前のことであるが、旧家の倉の屋根葺き替えと外壁の修理と内部の座床の張り替えを依頼された。工事にかかる前、施主から大安吉日の日を定めて工事にかかるよう指示を受けた。早朝、現場に行くと隣家の古老が私に向かって「棟梁、今日は朝から天気も良し日も好しだから娘の帯ほどきを始めるのかよ」と言った。そして「大工にかかったらお堅い娘も文句なしか」とも言うので、その訳を聞き質した。古い昔から白壁で固く塗り固めた倉を娘と表現し、固い扉を文句なしに開かせて中を見るのを帯ほどきと言うのだそうだ。もう消え去ろうとする古老の話であった。 足場を組み上げ、屋根瓦を剥すと、野地板や棰たるきはなく、厚みが1寸5分で板巾が1尺以上ある松板を軒先までのばし、棟木、母屋、桁に厚板が和釘でしっかり止められ、驚いたことに厚板の上には鉄で作られた5分角が5寸間隔で打ち付けられていた。施主の説明によると、昔は土蔵やぶりが屋根から侵入するので、先々代が、このような施工をしたのだろう言った。小屋組に使われている中引は欅の一本もので、梁は中引に打ちかけられていた。土台の下場には腐敗を防ぐため1分程の銅板が敷いてあり、基礎石は火災に弱い花崗岩は使用せず、「てしま」と呼ばれる水成岩が使われていた。また、倉の入口の観音開きの扉は、左官の技術の粋を集めて作られた漆喰仕上で、紙一枚はさまっても扉は閉まらないという精密な作りとなっており、観音開きの扉の寸法は大工が棟札に使う魯般尺の吉寸で作られていて、重い扉を閉めた時、釣金具の軋む音が身や心を引き締めさせるのだそうだ。 昔、土蔵は「長者の華」と呼ばれていた。土蔵を建てようとすると風水を調べ、その位置を決めた。今も土蔵の位置と方位を決める大工言葉がある。「辰たつみ巳玄

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