大工道具に生きる / 香川 量平
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 その41  皇大神宮と鉄釘95 私が国民学校(現在の小学校)6年生の頃、歴史の時間で「伊勢の皇大神宮は伊勢の町の4分の1を占める広大な神域に祀られ、20年に一度、式しきねんせんぐう年遷宮といって社殿のすべてが建て替えられると、御神躰は新しい社殿に移されます」と先生が話をした時、一人の生徒が「御神躰」は何ですか、と質問した。先生は襟を正し「畏くも古代に高天原で天照大神より授けられた三種の神器の一つである八やた咫の鏡であります、そしてその鏡は『石いしこりどめのみこと凝姥命』がお作りになったものであります」と説明した。古代、宝鏡は権威を象徴する宝器で祭祀用具として用いられたものであるが、しかし、高天原に銅鏡を作る高度な技術を石凝姥命が持ち合わせていたのだろうか。昔先生から命がお作りになったと教えられたが、石製の鏡でなかったのだろうか。『不思議の記録』の著者である浅見宗平氏は「ヒヒロガネ」と呼ばれる隕石(隕鉄)で神鏡、勾玉、神劔の三種の神器を作り、天あまつひつぎ津日継の皇位継承の御しるしとされたと説明しているが隕鉄の加工も大変に難儀されたことであろう。古銅鏡に詳しい宇都宮広氏は「現在、九州や大阪から出土した古銅鏡は約一世紀の頃に製作されたものであるが、朝鮮半島や中国からの渡来品で舶載鏡である」と説明している。 皇大神宮の御神躰がどうだこうだと騒いでいた頃、日本とアメリカが戦争をしていた戦時下で昼となく夜となく私服の憲兵が学校や民家に出没していた。小学校も国民学校と書き改められ、中学校に入ってからは英語の科目はなくなり、女子は大和撫子と呼び、武術を身に付け、女子挺身隊として軍需工場で働いた。男子は「武士道とは死ぬこと也」とか「戦場で戦死する時は天皇陛下万歳を三唱しろ」という軍事教育を受け、学徒動員によって軍需工場で働いた。そして、日本の国民は次第に戦争へと駆り立てられて行ったのである。しかし、皇大神宮の式年遷宮は戦時下といえども続けられ、神の国といわれた日本はアメリカに屈し、敗戦となったが、皇大神宮に祀る天照大神の御加護により、貧しいどん底より、日本国民は、いち早く立ち上がったのである。 昭和より平成へと時代は移り、平成5年の式年遷宮した年、おかげを戴こうと大工十数人がツアーに加わり参拝した。ガイドが「この新しいお社は鉄釘を一本も使っておりません」と説明すると、同行していた大工の見習が「社のタルキは糊づけか」と問い質したがガイドは答えなかった。見習の親方が引き下がらせ、「変な質問をするな、鉄釘を一本も使っていないと言ったのは、その棟梁の腕の良さを表した誉め言葉なのだ」と言って叱り付けていた。 ガイドの説明によると第40代の持統天皇が20年に一度、式年遷宮の制度を定めてから現在まで姿や形はすこしも変ることなく続けられているが、戦国時代には中断したこともあったそうだ。平成25年に行われる式年遷宮で第62回を迎えるが新社殿が完成すると御神躰である八咫鏡は勅使によって真夜中に遷御されるとのこと。そして皇大神宮の建築様式は「唯ゆいいつしんみょうづく一神明造り」の高床式で正面三間、側面二間で屋根は萱かやぶき葺の掘立柱であり、破風板が鋭く斜に長く延びて千ちぎ木となり、上部の先端が水平となっているのを「女めちぎ千木」と呼ぶのは祀られている神が女神であるからという。男神が祀られている千木は「男おちぎ千木」と呼び、先端が立たつみず水となっている。鰹木は十本で外宮は九本だが、側面に建つ太い丸柱は棟木まで長く伸び、その柱を「棟むなもちばしら持柱」と呼ぶ。皇大神宮以外の社殿では見られない高欄に据えられている青、赤、黄、白、黒の五色の「座すえだま玉」があると説明した。しかし宮津市にある籠神社には皇大神宮と同じく高欄に座玉がある。この神社は、もと伊勢と呼び第10代の祟すいじん神天皇の御代に天照大神と豊受大神を伊勢神宮に移したという。 鉄釘には和釘と洋釘とがある。和釘は釘鍛冶が一本一本丹精こめての手造であるため、大変な手間と時間を要する。皇大神宮の遷宮に使用する和釘は、新潟県三条市の和釘鍛冶である小林由夫氏の製作によるものであるが、小林氏は20年、40年の先を見越して一本一本正確に昔の形どおりに作り続けている。また小林氏は、次の世代に三条の和釘が確実に伝わるよう若手鍛冶の育成に努力を惜しまないという。 三条金物といえば全国的に大変有名であるが、大和久重雄氏は『鋼のはなし』の著書の中で、その昔、1662年、三条城の城主であった「稲いながきせっつのかみしげつな垣摂津守重綱」が大阪城の城主となってから、三条は幕府の直轄となり、城は取りこわされ、三条が城下町としての権威と誇りを失い、その上天災、地変による災害で疲弊困窮の極みに達した時、時の代官「大谷清兵衛」がこの町民の窮乏を救済しようと江戸から釘鍛冶を招いて簡単な家釘の製法を教えたのが鉄打業の始まりで、鋸や鎌などの製造が著しく進歩発展をとげ、現在の金物の町として有名になった礎は和釘の製作によるものであったと説明している。

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